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以下の内容は「日本メディカルイラストレーション雑誌vol.3」に投稿したものです。

要旨:COVID19のパンデミックに襲われた世界で、インターネットメディアが発達した現在の医学情報の流通状況が明らかになった。因果関係の解明によって形作られてきた医学は多くの疾患を治癒可能なものにしてきたが、未だ予防や治療ができない疾患は多く存在する。人間の自己意識に基盤を置いた「因果の物語」では到達できない世界の理がある。テクノロジーの発達は人間を取り巻くアフォーダンスである摩擦・空間・偏在の感覚をアップデートさせつつあり、新たな人間哲学として「共時の物語」が生まれている。近年、医学の記録法がデジタル化することで爆発的に情報量が増加している。画像の記録・再生機器の普及に伴って、あらゆるクリエーションがデジタルテクノロジーを土台にしつつあり、世界のメディカルイラストレーション(MI)も変化・適応している。SNSを使えばどこにいてもMIの自己教育が可能で、世界の制作者とつながることができる。情報通信テクノロジーが発達した現在の情報環境では、日々情報を求める人が存在するビオトープが生成・消滅しており、情報そのものも流動化している。視聴者獲得のための激しい競争の中、情報発信者には独自の視座を提供するキュレーションが不可欠になっている。

キーワード:因果の物語、共時の物語、キュレーション、ビオトープ、アンビエント化

目次

1.  はじめに〜学会設立後の憂鬱

2.  COVID19のパンデミックにみる情報流通と因果に基づいた医学

3.  佐々木俊尚著「時間とテクノロジー 因果の物語から共時の物語へ」

4.  記録の歴史からみた医学

5.  デジタルテクノロジー時代のクリエーションとメディカルイラストの現実

6.  デジタルと視覚の今

7.  教育に資するインターネット

8.  変化した情報の常識〜「キュレーションの時代」を読む

1.  情報を求める「ビオトープ」・情報が流動する「アンビエント化」

2.  発信者の「キュレーション力」・意味の壁「セマンティックボーダー」

1.   はじめに〜学会設立後の憂鬱

 2016年12月に当学会が設立されて4年が経過しようとしている。順調に回を重ね、内容も充実してきている一方で、設立前には気がつかなかったことで個人的に思い悩むことが増えた。

 現代の日本ではメディカルイラストを描いている人の中で、安定的にビジネスを回している人は少数という現実がある。私自身、思い通りに描くことに集中できる生活を送れていない。

潜在需要に比して現実のマーケット規模が小さく、拡大の様子は見えない。学会自体は職能団体としての機能が弱く、医師を含む医療職会員とイラストレーター会員の距離は遠く見える。学術領域として自立した研究はまだ少ない。運営面では経済基盤が薄く、役員のボランティアによる運営には限界もある。


 年ごとに増大する情報の洪水の中で、小さな学会などあっという間に消費され、過去に流れ去っていくコンテンツに終わるのではないかという危惧を感じることもある。

 設立の前には「学会があれば状況は改善されるのではないか」「学会ができれば〇〇ができるようになるのではないか」といった大きな期待があった。「こうすればこうなるだろう」と予想し、目標を掲げ、時系列に沿った因果関係を根拠に設立活動に魂を込めてきた。それゆえに今感じる悩みは、努力が足らなかったのではないかという疑念や、自由を求めて選択した結果の報いであると感じる時も正直ある。

 メディカルイラスト分野で、因果関係に期待して選択の自由を行使すると、少なくとも現在の日本においては未来への希望のない状況に直面するだけではないのか。

 しかし、悩ましいことばかりではない。学会で知り合った会員とコミュニケーションをとる時、ネットで先進的なビジュアル表現を使った医学記事を読む時、医学書に掲載された素晴らしいイラスト作品を見る時、またSNSでつながった世界の制作者の情報に接する時、自分が確かに今、「メディカルイラストレーションの世界につなぎとめられている」ことを喜びと共に実感する。

 学会設立・運営の経験を振り返り、様々な書籍から学びつつ考えることで迷いが晴れ、進むべき方向が定まった。その内容を「私の楽しいメディカルイラストレーション思考法」として記録し、議論の素材を提供しながら、この分野で頑張っている方々の背中を少しでも押すことができればと考えている。

2.   COVID19のパンデミックに見る情報流通と因果に基づいた医学

 2020年前半は新型コロナウイルス感染症の猛威とともにあった。私の勤務する病院も感染者を受け入れることが決まった。病理医の私も日常業務の傍ら未知のウイルスに関する情報収集に熱を入れてきた。COVID19はどのように報じられ、受容され、拡散されてきたか。そこに現在の医学情報の流通状況が浮き彫りになっている。

 基本的に医学情報は専門集団のコミュニティ内で活発にやりとりされ、記録されている。医療を供給する側ではない受給者にとっては、必要時にのみ情報にアクセスする場合がほとんどだろう。今回の感染症は、世界中の誰もが被害に遭う可能性があるウイルスであったことから、短期間に膨大な情報が流通した。

 私が日々リアルタイムの情報を得ていたのは、SNSであるtwitterのニュース及び有識者のアカウント、facebook上の専門家の発信、そしてネット上のニュースサイトである。その後にTVや新聞などのマスコミ報道で確認するといった使い方をしていた。twitterには感染症学会など専門学会の公式発表や厚労省などの国内情報に限らず、CDCやアメリカの大学など海外専門家団体の情報、海外在住の方のブログなどもシェアされるため、情報ハブとして大変有効であった。またtwitterにはローカル地域の情報もタイムリーに投稿があり、内容の真偽を見極める必要はあるがニュースサイトよりも速報性に優れていた。また動画共有サイトYoutubeでは、ニュースのまとめや個人発信者が伝える海外の状況を音声発信でタイムリーに追うことができただけでなく、モーショングラフィックを使用した感染者数の経時的推移のアニメーションや、過去のパンデミック感染症をわかりやすく解説した海外の動画なども見ることがで
きた。一方、中には誤った情報や不安を煽る報道も多く、受け手側のリテラシーが試されていると感じる場合もあった。そして科学的理解に基づいたビジュアル表現がもっと活躍できるはずとの歯がゆさも感じた。

 20年前は一般向け医療情報の多くは書籍や新聞、ラジオ・テレビで流通していたが、その後ネット上の情報が増加してきた。数年前まではその内容は玉石混交で、信用できないものも多かったが、2017年末、検索エンジンGoogleの「健康アップデート」と呼ばれるアルゴリズム変更以降、誠実な情報発信と共有が増えてきている。

 今回のコロナ禍は、IT業界の巨大企業が運営する情報通信プラットフォームが世界中のネット環境を寡占して以来、初めての世界的災厄であったと言える。この数カ月間で感じたのは、グローバルでタイムリーな情報と同時に、ローカルのスモールメディアによる情報発信も流通を制限されることなく共存できており、リゾーム的な情報の細分化が実現していることだった。

 情報の共有と学習が短期間に繰り返され、各国の対応の比較、その結果の感染者数の推移などがまとめられ、定期的に共有される。それに対して専門家が解説し、SNS上で様々な意見・疑問が飛び交い、日常生活を変えていく様子が見られた。リアルタイムで同時多発に起こるこれらの発信を受け取りながら、私が学生だった頃に比べて隔世の思いがした。

 最近まで、感染症は感染源の同定・隔離、抗生物質の使用、ワクチンによる免疫獲得により克服可能な範疇の病ととらえる人が多かったと思う。しかしCOVID19は、これらの科学的な因果関係に基づく対処法だけでは容易には克服できない。多くの人が生活の変容を余儀なくされ、巨大な経済的ダメージを負い始めている。人々の意思決定は医学的正しさのみに基づいて行われることはなく、生きていくために考慮すべき様々な要素の一つでしかない。ウイルス自身も次々と遺

伝子変異を繰り返し、感染後の体内動態など考慮すべき因子が無数にある。

 パンデミックをきたしうる感染症の発生は、都市への人口集中や宿主生物との間の共通感染、抗菌薬に対する耐性菌の出現など、複雑な要因が絡み合っており、今後も確率論的に新しい病原体の発生が確実と言われている。

 そもそも医学の根源は、「生まれた人がやがて病に陥り、死に至る」という根本的な因果関係を覆したいという欲求である。観察し、発見し、思考する中で見えなかったものが見えるようになり、実験によってそれら同士の因果関係が発見されてきた。小さな因果関係が積み重なって、大きな因果をコントロールできるようになり、治すことのできる病気も増えた。しかし多くの病気は複雑な要因が重なることで発症し、治療に結びつく因果を発見できていない。「生まれたものはやがて死ぬ」という根本因果が覆ることはない。それでも世界中の医学者は因果のコントロールを目指して、日々膨大な知見を積み重ねていく。

 メディカルビジュアル表現を担う私たちにとって医学の論理に従ってイラストを制作していく態度は大前提である。そして人々が強く「知りたい」と望む医療情報が大量に流通する事態は今後も続いていくだろう。正確な因果関係を理解した上で、媒体に合った表現を行うことが求められる。一方で、病と治療をめぐる現実は単純な因果関係では扱いきれないことが多い。例えば進行癌の患者さんに、最先端の免疫チェックポイント阻害薬を使用したとしても、薬剤の体内動態の全てがわかっているわけではなく、何の副作用もなく根治することは稀であり、最後は死という根本因果に従わざるをえない。あるいは認知症が高度な患者さんにとっては、少しでも痛みを伴う処置や治療は恐怖の対象でしかなく、因果のはっきりしている治療さえできない場合がある。このように現場には美しい因果の物語だけでは支えきれない生々しい関係性の中で営まれる生業がある。

 イラスト制作者にとって、医学のため人の健康のために自分の技術を活かしたいと熱意を持って努力しても、経済的に報われるという楽観的な因果も望めない現実もある。いつの日か成功することを期待しながらコツコツと因果の回廊を歩む以外に、一回性の命を生きる私たちの強みを活かす別の道はないのだろうか。

3.   佐々木俊尚著「時間とテクノロジー 因果の物語から共時の物語へ」

 因果関係を超えるものの正体とは何か。それを解き明かし、発達するテクノロジーを利用することでこれからの時代を希望を持って生きることができると説く本と出会った。

 「時間とテクノロジー 因果の物語から共時の物語へ」1)は、作家・ジャーナリスト佐々木俊尚氏により2019年末に出版された書籍である。メディカルイラストレーションとは一見、何の関係もないようだが、私には悩みを解決するパズルのピースがはまったように「これだ!この考え方が道しるべになる!」と眼前の霧が晴れるように感じた。私たちの分野と絡めながら紹介したい。

 はじめに本書を出版した光文社のサイトより、内容の要約を引用する。

 『私たちが有史以前から世界を理解してきた時系列の因果に沿った方法、「因果の物語」。人間は他の生命にはない自意識を持ち、「因果の物語」によって世界を認識することで、文明を発達させてきた。

 しかし自意識が同時に、「因果の物語」に沿って人生の目標やゴールを決めなければならないということを強制してくる。暮らしがいずれ豊かになっていくことを期待できた時代には、それに納得できる部分もあった。しかし21世紀の私たちは、そういう自由な選択による目標の設定を、抑圧として感じるようになってきている。

 その時代には、時系列に沿った人生の目的を考えるのではなく、新しい哲学が必要になる。それはすなわち、私たちは生きているからこそ生きているのであって、そこには過去も未来も現在もなく、「生きよう」と思った瞬間に「生」はただ立ち上がるのだという直感的な認識なのではないだろうか。』

 数千年前、人類に「自己認識」が芽生える前、神の声は絶対であった。それは次第に法律や宗教、物語によって代替されていった。因果関係を解き明かし人間に都合のいいように利用する方法は、人間的で絶対的な善として普遍的に共有されてきた。医学もその一つである。

 一方、私たちが生きる21世紀の現実世界は複雑さを増し、ひとつの原因がひとつの結果に結びつくような単純な「因果の物語」だけでは、もはや世界を説明することはできなくなっている。世界的な感染症の発生や不安定な国際秩序、コントロール不能な自然災害などの規模の大きなことに限らず、職場の人間関係や子供の教育、身近な病気のことなど、シンプルな因果関係では解明できないことに溢れているのだ。

 ある病気が治療によって治癒する過程を考えてみよう。それは全身の生理学的営みを行っている諸臓器・細胞において、遺伝子レベル・分子レベルの構成要素が非常に複雑な相互作用を演じながら、ある状態から他の状態に移行していく過程である。そこには一つの因果のみで説明できる単純な変化はなく、時系列で物事を考える言語的思考によっては捉えきれない事態が進行している。分析的な医学研究によって、多くの新たな遺伝子、分子が同定されてきているが、それと同時にそれらの果たす役割や複雑な相互関係の「分からなさ」も明らかになっている。

 人の生き方的にも、「こうすれば成功する」といった大きな因果の物語が機能しなくなりつつあり、個々人が自由に「自分に適した」物語を見つけることを強いられている。私自身、メディカルイラストレーションの役割を因果によって説明し、学会の意味を因果に基づいて掲げてきた。しかし逆に目的という因果の重しによって身動きが取れなくなっていた。

 近年、「因果の物語」とは異なる世界のことわりが明らかになってきた。それが「確率の物語」「べきの物語」そして「機械の物語」だ。

 17世紀、パスカルやフェルマーらによって開かれた確率論は、不確定な偶然現象において、いずれかが起こりうる「確からしさ」を計算する数学的理論である。定理の一つである「大数の法則」によって
、確率論は理論に留まらず、現実世界に広く当てはまることが示された。これは現代の科学の基盤となる理論であり、医学研究も確率論によって病因の同定や治療の有効性を判定している。因果関係はわからないが確率的には確かにそうなるという偶然の「確率の物語」が支配する領域は膨大にあり、広く深く世界を覆っているのである。

 「べき乗則」は確率論の一つで、ある出来事や現象において、物事が平均的に満遍なく起こるのではなくばらつきや偏りがあり、一部分が全体の大半を占めることがある。その偏り具合が指数の関係になっているという法則である。これは大規模停電や、原発事故、ハリケーン被害、地震、株価の変動、年収の分布、都市の人口などの複雑系で認められる。地震を例にとってみると、小さな地震は頻繁に起こるが大きな地震は稀にしか起きず、それらの頻度は指数的に偏っている。物理学者パー・バックによれば、地殻に歪みの応力が蓄積していき、しきい値まで近づいていくことを臨界状態と呼んでいる。地殻のどこかで応力がしきい値を超えると、周囲と連鎖反応が起こり大地震につながる。このように自然が自分で組織している臨界状態のことを「自己組織化臨界」と呼び、一見安定しているようで、いつ何時ひっくり返って別の状態に変化するかわからない臨界状態は自然界のあちこちで観察されている。人体も例外ではなく、遺伝子変異と修復の関係が一定のしきい値を超えたとき、病となって発症することはよく知られている。「べき乗則」も因果では説明できず、人間がコントロールすることは出来ていない。

 「機械の物語」はAIが機械学習によって生み出す知能のあり方から生まれるもので、人間の知能とは全く異っている。高度に計算能力を向上させたAIが、データから世界を解釈する深層学習によってくだす判断は、人間が理解出来る因果関係では捉えきれなくなっている。そこには最初から膨大な変数があり、要素が多すぎて人間にはそのロジックが理解できない。先に述べたように現代医学でも、単純な因果では説明しきれない膨大な事実が判明してきており、分析は出来ても利用は出来ない事実が増えている。治療や予防に結び付けるために、ビッグデータの深層学習によって、ブレイク・スルーを期待されている。

 「確率の物語」「べきの物語」「機械の物語」。人間はこれらの新しい物語を「自分ごと」だと感じられず、分かりやすい「因果の物語」を求めてしまう傾向がある。フェイクニュースやトンデモ医療はその表れといえるだろう。しかし私たちの世界は因果の物語だけでできているのではない。21世紀に生きる私たちはそれを皮膚感覚として理解するようになりつつある。それは時系列とは異なる立体の座標軸の空間の中で感じる感覚である。本書ではテクノロジーの発達が「摩擦感覚」「空間感覚」「偏在感覚」の3つの感覚をアップデートしつつあることを紹介している。 

 私たちの身体は外界からの反発である摩擦を感じるとき、自分の実在を実感する。「ちょうど良い」程度の摩擦は、私たちが世界と一体となっている感覚を得るために不可欠である。料理も、薪割りも、陶芸も、岩登りも、私たちが空間の中で体を使って自己を忘れる没入体験をするとき、そこには必ず適度な摩擦が存在している。この摩擦に満ちたアナログ世界から、数十年前にデジタルの世界が分離し、私たちの前に登場した時、そこには摩擦の欠落による頼りなさ、ある種の胡散臭さがあった。しかしネット環境が世界を覆い、一人に一台のスマートフォンが普及するなど情報通信テクノロジーが成熟しつつある現在、そこでは現実空間では感じることのできない二つの皮膚感覚が可能になりつつある。一つは自分の周りの世界が三次元的に認識できるようになること。もう一つは、目の前の現実世界だけではなく、時間も空間も超えて外界につながれる「偏在」が可能になることである。

 私たちは機械や他者、仮想や現実が偏在している時空間に生きるようになりつつある。今この瞬間に、全ての事象が目の前に用意される世界。因果の物語という時間軸の呪縛から逃れる突破口の一つとして、テクノロジーによって支援される摩擦・空間・偏在という三つの感覚がある。今、この瞬間の世界につなぎとめられているという感覚が深まり、この瞬間を共有する様々な人々や機械、仮想の世界とも相互に作用させている。それによって私たちの人生は持続し駆動し続ける。このことを本書では新たな人間の哲学として「共時の物語」と呼んでいる。

 時間軸に縛られた「因果の物語」から、テクノロジーが支援する「共時の物語」へ。それが本書から私が受けた強烈なメッセージである。以下の章でこの書籍の考え方を援用しながら、メディカルイラストレーションの共時性を解き明かし、私たちが楽しみながら描くための思考法を考察したい。

4.   記録の歴史から見た医学

 人類史は記録の歴史でもある。私たちは有史以前から「記憶する」ことに大きな労力を割いてきた。最初は言葉による脳の記憶であり、最古のメディアは洞窟壁画であった。そして文字が発明された。印刷テクノロジーはそれまでしまいこまれていた知を解放した。15世紀、ヨーロッパで活版印刷が実用化したことで、書籍による知識や思想が普及し、知の全体を俯瞰的に見通す目を持つことができるようになった。この結果、ルネッサンスや宗教改革が起こるなど、大きな知のパラダイムシフトの原動力となったのだ。21世紀の今、インターネットテクノロジーを中心に起こっている情報通信テクノロジーの発達によって、次のパラダイムシフトが起こることは間違いないだろう。

 医学の記録は長い間、紙媒体への筆記記録と印刷媒体に限られてきた。メディカルイラストレーションの原初形態は紙にインクで描かれている。19世紀末にX線撮影技術が開発され、記録媒体の多様化が始まった。私が医師となった1990年代は、紙媒体と現像フィルムの時代から、デジタル化によるハードディスクへの記録に変化してきた時代である。研修医の頃は患者さんのX線撮影フィルムが入った重たい袋を抱えて病棟を走り回っていた。その後デジタル記録媒体の容量の増大と低価格化が進み、今やモニターの前で検索一発で、過去の画像一覧から血液データーの経時的推移まで全て見ることができる。

 紙カルテから電子カルテへ、レントゲンからマルチスライスCT・高分解能MRIへ、経験的治療からEBMへ、殺細胞性抗癌剤から分子標的治療薬・免疫チェックポイント阻害薬へ、病理組織診断から遺伝子パネル検査へ。この数十年の間に起こった様々な変化は、検査機器の発達と記録媒体の高容量化、データの幾何級数的蓄積とそれを解析するコンピューターの処理速度の増加がパラレルに進展した結果、普及してきたものである。そして世界のメディカルイラストレーションはこの時代の変化に対応して、その形と意義を変えてきている。

 この数年の進歩としては、IoTデジタルヘルスデバイスによる生体情報のリアルタイム収集が始まっており、ビッグデータの深層学習による個人へのフィードバックが期待されている。また医用撮影モダリティの高分解能化から時間がたち、医療現場のモニター上では過去の画像情報が色褪せることなく現在のそれと並存する世界が実現している。さらに遺伝子バンクの充実と個人データの暗号化による登録が進み、個人という概念が生物学的に変革を迫られる時代が迫っている。

 ここで医学的データの記録について理解を進めるために、3つの調査結果をご紹介したい。一つめは東京大学の荒牧らによって行われた「電子カルテと手書きカルテのテキストに含まれる情報の質的・量的な差異を検討」2)したものである。結果は手書きカルテに比べ、電子カルテの方が記載された情報量が2〜2.5倍に増えていた。これはコピーペーストの分を差し引いての結果であり、手書きカルテを多く書いていた医師ほど、電子カルテでもさらに多く書く傾向が見られたという。


 二つめは世界で一年間に生成されるヘルスケアデータ量を比較したものである3)。その結果、2013年は153エクサバイトであったものが、2020年には2,314エクサバイトと約15倍となっている(1エクサバイト=1兆メガバイト)。

 三つめは近代以降の医学知識が倍になる期間を調査したものである4)。1950年では倍になるまでに50年かかったのに対し、1980年では7年に、2010年では3.5年とどんどん短くなっており、2020年には0.2年(73日)で倍

になると予想されている。

5.   デジタルテクノロジー時代のクリエーションとメディカルイラストの現実

 社会の基盤は政治システムや経済システムであったが、今や様々な分野でテクノロジーが基盤となりつつある。ここではクリエイティブな領域におけるテクノロジーの影響を見ていきたい。

 インターネットテクノロジーと高精細デジタルモニター機器の発達・普及により、世界中のビジュアルコンテンツがいつでもどこでも眼前で楽しめるようになって久しい。世界的な画家やイラストレーターの作品、過去の美術作品がネット上で見ることができる5)。またアカデミックな絵画スクールのサイトは日々更新され、Youtube上にはクリエーターの手元動画が大量に存在する。Instagramには世界中の日曜画家からプロフェッショナルの作品までが毎時毎分、大量に投稿・共有されている。私が学生だった30年前には考えられなかった状態である。ルーブル美術館の中をバーチャル画像で自由に散策することも可能になった(無料で!)6)

 中高生時代から木炭デッサンを描き、油絵作品を県の美術展に発表していた私は、ファインアート系の公募展である日展、二科展、白日会展などの熱心なフォロワーであった。一方、インターネット上ではこれらの団体はマイノリティであり、メジャーはアニメ・イラスト・ゲームの世界であった。ビジネスとして持続性を発揮しているのは後者であるように感じ、私は昨年からイラスト系のコミュニティ(「アニメ私塾」)に所属し現状を学ぶと同時に、Instagramで作品の毎日投稿を始めた。そしてこの世界の活発な内情を垣間見ることができた。

 Pixiv7)、コミケなどイラストの世界には非常に多くの愛好者がおり、SNS上では作家やフォロワーがコミュニティを形成し活発に活動している。ネット上での課金による作品の販売が可能であり、ある程度以上のフォロワーを獲得した作家は専業で食べていくことができている。一人の作家を多くのファンが支えるエコシステムが形成されており、間に搾取的な仲介者を介さずにプラットフォーム上で直接価値の交換がなされている。

 海外のアート系交流サイトの代表格であるArtstation8)では、キャラクターデザイナーやコンセプトアーティスト、環境テクスチャアーティスト、ゲームデザイナー、3Dアーティスト、キャラクタースカルプターなどがハイレベルな作品を投稿している。そこで使用されているソフトウェアや画材は、メディカルイラストレーション制作で使われているそれに共通している。またポートフォリオの見本市の側面も強く、ゲーム会社や映像制作会社からのビジネスオファーに直結している。彼らが目指すのは、世界で数千万本を売り上げるゲームの製作スタッフに名をつらねること、pixarやdisneyなどの映画製作大手のデザイナーとして契約を勝ち取ること、グローバルな「神絵師」として数百万単位のフォロワーを獲得することである。巨大なビジネスとして成立しており、一攫千金も夢ではない。

 ネット上のアート、イラスト業界を体験していると、あるネット発信者がtwitter上でつぶやいていた「発信しないものは存在しないも同じ」という言葉がリアルに感じられるようになってくる。医学分野においても、これから一般の人が情報収集するメディアがマスメディア・書籍から、デジタルデバイスへ移行することを考えると、我々メディカルビジュアルの発信者にとってもデジタル情報発信への移行は不可避になると考えている。

 現代のメディカルイラストレーションの表現手法について見てみよう。2019年サロンウィナー9)の47作品のうち、3Dモデリング・アニメーション+VRが12作品、モーショングラフィックが2作品、インタラクティブウェブサイトが1作品、グラフィックソフトによる手描きイラスト・インフォメーショングラフィックが26作品、ペンによる手描きが2作品となっている。メディカルイラストレーター・ソースブック10)に紹介されている作品80点のうち、3DCGによる作品が40点、グラフィックソフトを含む手描き作品が40点である。

 世界のメディカルイラストレーター個人のSNSやホームページを見ると、制作のためのツールは驚くほど共通である。その多くがモニター上での配信を基本にしており、情報発信がかつての出版メディアから、ネット発信に広がっているのを如実に感じる。デジタルは簡単にコピーが可能である。それだけに自分がどの立ち位置で、どのようなビジュアルを発信するのかを戦略的に考えることが求められている。

6.   デジタルと視覚の今

 今年で49歳になる私が子供だった頃の写真は、全てフィルムカメラで撮影されたものであり、フィルム代と現像費がかかるため、一枚の写真も貴重なものであった。1990年代よりデジタルカメラが普及し、枚数を気にせず何枚でも撮影できるようになった。間もなく現像せずにモニター上で見るようになっていく。2010年代からはスマホが普及し始め、デジカメ市場は高画質一眼カメラを残して縮小していった。画像はネットのクラウド上にデータとして保存され、スマホやタブレットからいつでも閲覧することが可能になった。画面をスクロールすれば、15年間前の写真も昨日のそれも画質の劣化なく見ることができる。

 この間のビデオカメラの発達も顕著で、1996年に生まれた子供の様子を、デジタル企画テープ(DVテープ)搭載のカムコーダで撮影していた。2019年に購入した3台目のビデオカメラはデジタル4K画像撮影が可能で、画素数もカムコーダの約30倍になっている。その画質は地上波放送テレビと変わらない。

 1995年にwindows95が発売され、その後、インターネットが急速に普及していく。10年後にはネットの人口普及率が70%を超えた。2004年には日本初のSNSであるmixiがサービスを開始。ブログを含め、双方向発信の文化が生まれた。2008年にはfacebook、twitterが日本語版を開始。同じ年にiphoneが発売を開始した。2010年代後半からは動画のネット視聴と発信の文化が普及し始め、2020年から5G規格の回線が始まっている。

 画像記録・再生機器は高画質化・低価格化が進み、人間の網膜解像度を越えようとしている。ICチップの進化によりスマートフォンが高画質・高音質の記録媒体になると同時に、ネットとつながり世界のメディア画像・動画にいつでもアクセス可能になった。スマホの保有率は2019年末で約80%と、一人一台のデバイスが生活の隅々まで浸透している。医学画像・医学出版はこの背景放射の中にある。

 今やこの現状を踏まえた上でなければ、メディカルイラストレーションの発信はありえないと思う。あらゆるクリエーションの現場では、人と人、人と情報、人と機械がつながり、共時性を持って刺激し合いながら作品を生み出している。そして制作者にとっては、大量の情報の洪水の中から必要なものを取捨選択するために、情報リテラシーがより求められるようになり、創造性を働かせるための旺盛な知的消化力が必要になっている。

7.   教育に資するインターネット

 私は表現する自己をfacebook上で育ててきた。同行者が一人もいない地方でも思考を深め、活発に活動することが可能だったのは、インターネットで世界の情報にアクセスできるようになったからであることは間違いない。メディカルビジュアリゼーションの視座を集め、それを元に実践する中で、自分の中に視座を構築していった。九州の一地方にいながら、ネットを通して、隣にはいつも世界のメディカルイラスト学科の学生や先生がいてくれた。

 緩いつながりが人を育てると言われる。アメリカ・カナダを中心にした多くのメディカルイラストレーターを友人に持つことができ、団体やイラスト制作会社をフォロー(facebookで71人、Instagramで約100人の友人、facebookでフォロー中の団体は22、会社は67社)することで、自分の描画レベルを客観的に位置付けることもできた。

 SNSは日々の練習や思考、作品の発表の場として活用できる。私は今Instagramで世界の同行者につながることができている。またAMIとジョンズホプキンズ大学AAM、トロント大学BMCの投稿はfaceb
ookのトップ表示に設定し、ニュースをチェックできるようにしている。

 またオンラインのアニメ・イラスト制作グループに所属し、会員同士で役に立った動画や書籍の情報を共有し合っている。個人的には毎日人物クロッキーを描くことを日課にしている。Youtube上では描き方や3DCG制作を教えるチャンネルが直近の数年間で驚くほど充実してきており、絵の学校がスマホの中にある状態だ。私が住む町には絵画教室は見つけられなかったが、倦むことなくイラスト制作を楽しめるのは間違いなくネット環境があるからである。

 このようにインターネットを通じた独学が可能である時代、リアルな学会の役割とはなんだろうか。医学に関する私の学習経験から考えてみたい。誰もが自由にアクセルできるPubmedという医学論文検索サイトがある。ネット上には和洋の医学論文が大量に閲覧可能である。医師の中には学生時代から自発的にこれらのサイトで学び、論文を発表する優秀な人もいるが、私の場合は先生に教えてもらい、先輩に指導され、患者さんから直接学び、大学院で論文の輪読会に数年参加する中で、ようやく自由に論文を検索し、楽しく読むことができるようになった。一人でネットから学ぶ場合、モチベーションの維持や疑問点の解決が難しいことがある。そんな時は直接人と会話し、刺激を受けることが有効である。私たちの学会にはそんな教育的役割があると考える。

8.   変化した情報の常識〜「キュレーションの時代」を読む

 これまで見てきたように、一昔前の情報環境とインターネットテクノロジーが発達した現在のそれでは大きく変化している。21世紀初頭の今、情報の常識はどうなっているのだろうか。ここで佐々木俊尚氏の別の著作「キュレーションの時代 つながりの情報革命が始まる」11)を紹介したい。

8-1.     情報を求める「ビオトープ」・情報が流動化する「アンビエント化」

 本書では情報の流れの課題として以下の3つを挙げている。「⑴ある情報を求める人が、一体どの場所に存在しているのか、⑵そこにどうやって情報を放り込むのか、⑶そして、その情報にどうやって感銘を受けてもらうのか」である。本書は、現在の情報環境の現実を描き出すことから始まる。

 「情報を求める人が存在している場所」のことを、佐々木氏は生態学の概念である「生物生息空間」になぞらえてビオトープ(biotope)と名付けた。インターネットが普及する前のビオトープは単純であり、新聞やテレビ、雑誌、ラジオというマスメディアと折り込み広告やチラシ投函、街頭広告などしか情報媒体がなく、ビオトープが整然と切り分けられ、可視化され、整頓されたメディア空間であった。それは大雑把で個別の細分化された欲望を反映しない、一方通行のメディアであった。しかしインターネットの登場後、情報が共有される圏域がどんどん細分化され、ビオトープを俯瞰して特定するのが非常に難しくなってきているとする。

 新たなビオトープとして、「検索キーワード、メールマガジン、掲示板、ブログ、SNS、ツイ
ッター、口コミサイト」などが普及している。これらによりビオトープはデジタル空間の中と外で無限大の広がりを持つようになっている。それらは生まれては消え、また別の場所で生まれるように固定化されていないという特徴がある。マスメディアは巨大で大雑把なビオトープであったが、ネット上では個人の細かな意向を反映した小さな情報の圏域が膨大に生まれている。現在、ネット上には130兆ページのウェブページが存在し、一秒間に3000件、1年あたり2兆回の検索が行われているという12)。その結果、99%の情報は知らせたい人に届かない状況になっている。

 以上が現在の情報環境であり、情報発信者にとっての課題は密度の濃いビオトープを探し当て、濃密なコンテンツを的確に投げ込めるかどうかである。

 もう一つの新しい情報環境の特徴として、情報の「アンビエント化」がある。アンビエントとは「周囲の、環境の」という意味であり、情報のアンビエント化とは、私たちが触れる動画や音楽、書籍などのコンテンツが全てオープンに流動化し、いつでもどこでも手に入るようなかたちでネット環境に漂っている状態を指している。コンテンツはテクノロジーの進化によって、徐々にアンビエントへと進んでいくのは不可逆であると述べられている。アンビエント化したコンテンツの海の中に無数のビオトープが生息している状態、それが現在の情報環境であり、情報の流通はマスメディアからの一方的な配信は減少し、人と人のつながりを介して連鎖的に流れていく割合が年々増大しているとする。

 そして情報のやり取りは単なるデータの交換だけではなく、「他者からの承認」と「社会への接続」を伴っており、だからこそ人々の欲求にかなって駆動されている。情報の交換を通じて人と人がつながるための空間が生まれ、共感の土台としての文脈=コンテキストが生み出されていく、そう述べられている。一方的な流れだったマスメディアによる情報流通は、未来から振り返った時、期間限定的な方法だったと評価される可能性がある。人々の自然な欲求にかなう双方向の発信・受信がこれからの情報流通のスタンダードとなり、そこでは過去から現在までのあらゆる情報が環境中に存在し、いつでも利用可能であり、関心を共にする人々の間で互いの承認を伴ったコンテキスト・コンテンツのやりとりが活発に交わされていく。これはインターネットが革命といわれる最大の理由の一つと言えよう。

 COVID19の情報流通を振り返ってみよう。様々なレイヤー・クラスターに分かれて生活を営んでいる世界中の人々が、一斉に一つの感染症に関する強い興味・関心を抱いて情報を求めた。ネットメディア、SNS、マスメディアが一斉に報道を始め、情報が無数のビオトープに流れ込んでいき、シェアされ、疑問や意見が発信され、共感や反発が生まれていった。中国・武漢の医師がYoutubeで告発的ビデオの配信を行い、瞬く間に世界に広がっていった。ネット上にアップされた情報はいつでも参照可能な状態でクラウド上のアンビエントコンテンツになっていく。SNS上ではジョンズホプキンズ大学の公衆衛生学講座の統計データが日々更新され、日本政府の方針やクラスター解析班の発表に耳目が集まり、医療クラスターと呼ばれる医師らの間で本音の議論が交わされた。 

 人々はそれぞれの生活背景によって興味関心の異なるビオトープを形成している。小学生の子を持つ母親は政府の休校措置の情報を欲し、自営の飲食業を営む社長は緊急事態宣言の行方に注目し、感染者の受け入れを要請された病院の看護師は感染対策とPCR陽性率の情報に神経を尖らせた。それぞれのビオトープ内では共鳴・共感を支えるコンテキストに基づいた言葉が交わされ、つながりや労わりが生まれていた。一方、視聴率を稼ぐために不安を煽るコンテキストで発信するメディアや、共通の敵を作ることで団結しようとするコンテキストでデマ情報を発信する個人も現れた。

 次にデジタルクリエーションの世界を俯瞰してみよう。元々マスメディアに扱われることが少なかった分野でもあり、インターネットに素早く適応していったと考えられる。世界中のクリエーターの作品や歴史上の画家の作品が無数にクラウド上にアップされ、アンビエント化している。それらの画像を元にインスパイアされた新しい作品が日々ネット上にアップロードされ、ソーシャルネットワークを介して、関心のあるビオトープによって発見され、承認される。作品を介したコミュニケーションが交わされ、ファンによるクリエーターへの投げ銭的な支援が行われることもある。インターネット上を中心に作品情報の伝達がなされ、コミュニティが形成され、教育が行われている。時にオフラインのマーケット・交流会が様々な規模で開催され、その様子がSNSでシェアされていく。作品の分野別に国境を超えたビオトープが無数に形成され、人々は自由にネット上の空間を移動しながら作品を介したつながりを楽しんでいる。

 以上を概括すると、アンビエント化した情報空間の中で独自のビオトープを形成している人々。そして人と人のつながりを介して情報がやりとりされ、共感のコンテキストをベースにしたコンテンツの流通。そんな現代の情報環境が見えてくる。しかしそこには大量の情報の渦の中で視聴者を奪い合う凄まじい競争が行われており、ほとんどの情報は誰にも見られることなく消えていく過酷な戦場でもある。では、競争を勝ち抜き多数の視聴者も獲得している発信者にはどんな能力があるのだろうか。また逆に、視聴者が大量の情報にさらされながら、大半を捨ててわずかの情報を選び取る時に働くメカニズムはなんだろうか。

8-2.     発信者の「キュレーション力」・意味の壁「セマンティックボーダー」

 発信者の能力として重要なものはキュレーションの力である。キュレーションとは、元々美術館や博物館で展示会を企画・運営する役職であるキュレーターを語源としているが、ここでは「無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること」と説明されている。つまりある世界観や価値観という「視座」を有する人が、コンテキストに基づいて情報を収集・編集・発信し、それに共鳴・共感した人がコンテキストに接続し、情報の濃密なやりとりを行う。この結果、視座=人として記憶され、その後、繰り返し「視座にチェックイン」することでお気に入りの視座=情報発信者として、受信者と強いつながりが生まれる。この視座の提供がキュレーションと呼ばれるものである。キュレーションの質が高ければ、多くの視聴者を獲得することができるのだ。

 COVID19について考えてみると、一次情報である統計データや科学的データを発信することも重要だが、感染症の専門家以外の人にとっては、その情報が持つ意味、その情報が持つ可能性、その情報が持つ「あなただけにとっての価値」、そういうコンテキストを付与できる存在の方がより重要であった。今回の感染症に限らず、情報爆発が進み膨大な情報が私たちの周りをアンビエントに取り囲むようになっている中で、情報そのものと同じくらいに、そこから情報をフィルタリングするキュレーションの価値が高まっているのである。


 逆に、受信者が情報を取捨選択する時に働くメカニズムは「セマンティックボーダー」という機構と考えられる。セマンティックボーダー(semantic border)は「意味の壁」と訳され、バイオホロニクス(生命関係学)研究者の清水博氏が考案した概念である13)。世界の複雑さは無限で、それをすべて自分の世界に取り込むことはできない。ノイズの海と私たちが直接向き合うことは到底不可能である。そこで動物や人間は情報の障壁を設けて、その内側に自分だけのルールを保っていると言える。すなわち、外のノイズの海の中から、自分のルールにのっとっている情報だけをフィルタリングして取り込むようにコントロールしている。これを清水氏は「自己の世界の意味的な境界」としてセマンティックボーダーと呼んだ。人が生きていくために、積極的に情報を選別・遮断するシステムが存在しているわけである。

 また情報を発信する側にもセマンティックボーダーは存在している。自らの価値観によって情報を整理し、コンテクストという視座を形成するためには、積極的な取捨選択が不可欠だ。一方で自ら壁を作り、外部と切り離すことは自閉的・独善的になる危険性をはらんでいる。このため、アウトサイドにあるものに対し、意識的にコンテキストを付与してインサイドに取り込む(=キュレーションする)ことで、価値観の拡張=ボーダーの拡大を行うことが必要となる。

 この様子は医学情報の分野でよく認められる。日常生活を送る多くの人にとって、複雑な医学の情報はフィルタリングされて排除される場合が多い。多忙な日常の中に医学知識が浮上することはあまりないだろう。逆に医療従事者の側にとっては、長期間の努力で身につけた価値観であるセマンティックボーダーの中で、ミス無く仕事を行うことに忙殺され、余計な外部のことを取り込む余裕がなくなっている場合も多い。このため生活者には「医療リテラシーを高めよう」と啓蒙され、医療従事者には「患者さんの身になってコミュニケーションを」と研修が義務付けられることになる。ここで求められているのは、情報のキュレーションにより外部を内部へ取り込み、ボーダーを拡張していくこと、揺らぎやブレを恐れずに視座にチェックインし続けることであろう。セマンティックボーダー(SB)を理解し、キュレーションの力を身につけることは、医学分野の情報発信者にとって必須となるのではないだろうか。まずは人のSBの前にたどり着くこと。次にSBに応じて変化できること。医者も患者も、独自のSBを持つという意味では平等である。そしてメディカルイラストレーションを描く際には、そこにどのような意味の壁が存在し、どのようにキュレーションすることが有効であるのかを考えることが求められている。

参考文献

1).  佐々木俊尚:時間とテクノロジー 「因果の物語」から「共時の物語」へ、光文社、2019年

2).      荒巻 英治、増川 佐知子ら:電子化により外来カルテの情報量は増加する傾向がある、第30回医療情報学連合大会、1046-1049、2010

3).      M. Mikulic: Projected growth in global healthcare data volume 2020, Sep 24, 2020 <www.statista.com>(2020年10月22日アクセス)

4).      P. Densen: Challenges and Opportunities Facing Medical Education, Trans Am Clin Climatol Assoc. 2011. 48-58

5).       Google Art & Culture<https://artsandculture.google.com/?hl=ja>(2020年9月9日アクセス)

6).       Louvre、”Online Tours”<https://www.louvre.fr/en/visites-en-ligne#tabs>(2020年9月9日アクセス)

7).      Pixiv<www.pixiv.net>(2020年10月22日アクセス)

8).       Artstation<https://www.artstation.com/community/channels?sort_by=community>(2020年9月9日アクセス)

9).       AMI salon winners 2019, <https://ami.org/medical-illustration/view-art-and-animations/2019-salon-winners>(2020年9月9日アクセス)

10).   Medical illustration sourcebook、<https://www.medillsb.com/>(2020年9月9日アクセス)

11).佐々木俊尚:キュレーションの時代「つながり」の情報革命が始まる、ちくま書房、2011年

12).  飯高悠太:僕らはSNSでモノを買う SNSマーケティングの「新法則」、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2019年

13).清水博:生命を捉えなおす 生きている状態とは何か 増補版、中公新書、1990年

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