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以下の内容は「日本メディカルイラストレーション学会雑誌Vol.3」に投稿したものです。

要旨:今後、摩擦・空間・偏在の3つの感覚がテクノロジーによりアップデートされ、「この瞬間の世界に共にあること=共時の物語」が新たな希望となる時代が訪れるとされる。この動向を後押しするのが生命システムの自己決定に着目するオートポイエーシス理論である。これらを土台として、アフォーダンス理論によって医療・医学を読み解きメディカルイラストレーションに応用する新しい学問、医療生態心理学を提唱する。そのために私がMIを描くに至る個人的感覚体験を振り返る。そして人がMIを描く根源的意味として「からだと認識」の相互関係を位置づけ、イメージ生成とからだの関係を読み解いていく。医療生態心理学の基本書となる佐々木正人著「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」を紐解き、「肌理、レイアウト、均質性、変形、身体の定位、生態光学の共有、変形下の不変、視覚の不変、あらゆるところに同時にいる、2つ以上を同時に見る、行為だけが知っている周囲」という基本概念を、医学・医療を描くために世界を理解する方法として解説する。

キーワード:医療生態心理学、触感、アフォーダンス、レイアウト、生態光学

目次

1.   感覚をめぐる個人誌から医療生態心理学の着想へ

1.   薄井坦子先生「科学的看護論」との出会い

2.   「因果の物語から共時の物語へ」から新たな指針を構想する

2.   触感をめぐる個人史

3.   美術部で学んだこと〜絵に秘められたパワー

4.   家族の大ケガ〜触感という信頼の土台

5.   空手部で学んだこと

6.   佐々木正人著「からだ:認識の原点」

1.   見ることとからだ

2.   ひろがり・空間の感覚とからだ

3.   記憶・イメージをつくりだすからだ

7.   情報通信テクノロジーと医学世界全体を読み解く医療生態心理学

8.   医療生態心理学とは〜「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」に基づいて

1.   医療生態心理学の概略

2.   肌理、レイアウト、アフォーダンス

3.   大気の均質性、固さのレイアウト、レイアウトの変形、身体の定位、手

4.   絵画、生態光学、変形下の不変、視覚の不変、あらゆるところに同時にいる

5.   2つ以上を同時に見る、生きる人の不変項

6.   行為だけが知っている周囲、物に潜在する計り知れない性質

9.   おわりに

1.   感覚をめぐる個人史から医療生態心理学の着想へ

1-1.     薄井坦子先生「科学的看護論」との出会い

 医学生時代、宮崎県立看護大学の初代学長であられた薄井坦子先生の著作群と出会った。ナイチンゲール研究と看護実践から独自の科学的看護理論を樹立し、多くの医療者を教育してこられた先生である。当時、医学の教科書を学ぶのと並行して、薄井先生の著作をボロボロになるまで読み込んでいた。哲学や思想が好きで頭でっかちになりがちだった私に、先生は「現実の経験から学ぶ」ことの大事さを叩き込んでくれた。教科書である「看護学原論 講義」1)の第1講・序論「看護学はあるのか?」の中から学問に対する考え方を引用する。


 「まず明確に意識しておいてほしいことは、学問は存在するのではなく、人間が歴史的に創り上げるものであるということである。(中略)看護に情熱を燃やし、看護を人間の看護たらしめようとする歴史的な意識に燃える人間たちが、その実践する看護そのもののなかに、看護が拠って立ち、かつ看護の具体化へと導いてくれる法則性を発見し、しだいに学として創りあげていくものである。(中略)そもそも学問というものは、未知の分野に入り込んでその構造を探り、論理をつかみとって一般化し、それらをしだいに体系化していくという全プロセスをもつものなのである。こういう仕事は、自らが能動的に対象に取り組むことおよび創造的な読み取りを進めることを必ず要求する。(中略)現実的に見つめるとは、やさしく言えば、事実を事実として直視して事実から学ぼうとする姿勢を持ち続けることである。経験的に見つめるとは、決して第三者的に距離をおいて対象を眺めるのではなく、自らとの関わりにおいて主体的にとりくむ中で、自らを自らの眼で見つめ返すということである。このようなとりくみをしないかぎり、対象に備わる性質を、その内的構造に立ち入ってつかみとってくるということはできない。これが学問することの出発点であり、ここから学問は始まるのである。」(引用終り)

看護学原論 講義より改変して引用 

 今読んでも身が引き締まる思いがする名文である。メディカルイラストレーション学を創るということは、医療と医学に主体的に取り組み、その構造を探り、イラストレーションの制作の実践研究の中で自らを自らの眼で見つめかえすことによって、優れた効果を発揮する法則性を見出していく情熱が不可欠であることを教えてくれる。それは医療に直接たずさわるか否かにかかわらず、メディカルイラストレーションを真に人間のためのものにするという歴史的な意識に燃える人間たちの取り組みを要求するものなのだ。

 薄井先生の看護学原論から、生命力と看護・医療の関わりについての図譜を引用し、私なりの医学の学びを付け加えたインフォグラフィックを示す。

1-2.     「因果の物語から共時の物語へ」から新たな指針を構想する

 第一部で紹介した書籍「時間とテクノロジー 因果の物語から共時の物語へ」が与えた衝撃的な内容を要約したい。高度にデジタルテクノロジーが進んだ今、クラウド上では過去も現在も未来も全ての情報が同じ品質で目の前に存在し、摩耗という現象が無くなった。高精細の再生装置が生み出す情報は人間の皮膚感覚によるアナログを凌駕していこうとしている。そしてこれまでは情報を垂直統合していたメディアビジネスが、インターネットによって水平分離され(第一世代プラットフォーム)、今後データとAIによって結合され流体としての統合的サービスに移行していく(第二世代プラットフォームの台頭)。コンピューターはパーソナル+クラウドの時代から、中間に多数のフォグコンピューティングを置くことにより、我々を取り巻く環境自体が知能を持ち、環境知能を実現する方向に進んでいる。AR/VR技術の普及も伴って、我々一人一人にとって空間が解放される。これに加えて、摩擦感覚を意図的に作ったり、三次元の「触感」をテクノロジーで実現する研究が進んでおり、SNSに身体感覚を取り戻したり、仮想空間も現実空間も三次元に存在し、関係を持てる世界がやってくると予想されている。ここに至り、今この瞬間に全て
の事象が目の前に用意される世界=偏在に到達するとされる。時系列に沿った因果性から空間を共有する共時性が実現し、「この瞬間の世界につなぎとめられている感覚」が希望をもたらすという。そしてこの動向を後押しする哲学としてオートポイエーシス理論があるとしている。

 ここで述べられている人間の摩擦感覚、空間感覚、偏在感覚について、これまで詳細に研究を進めてきた学問領域としてアフォーダンス理論を柱とする生態心理学がある。私はメディカルイラストレーションの研究を始めた当初から、アフォーダンス理論とオートポイエーシス理論に注目し自己流で研究を続けていた。そのためこの書籍に大きなテーマとして取り上げられていたことに驚愕し、これからのメディカルイラストレーション研究を進める方向に間違いがないことを確信することができた。これに勇気を得て、新しい学問領域を構築することを決意した。それが医療生態心理学である。


 医療生態心理学はアフォーダンス理論とオートポイエーシス理論を土台として、医学とメディカルイラストレーションをつなぎ、両者を対等に分析し、役立てるために作られる。医療従事者のあらゆる場面での実感をすくい上げ、身体を持った人間が情報テクノロジーの渦に負けずに、たくましく創造するための思考である。医療現場や医学研究を分析する方法を提示し、どのように表現し、どのようなインターフェイスで実装し、どのビオトープに届けるかを考えるための学問である。 

 私はこれまで多くのメディカルイラストレーション作品を見続けてきた。その中でつまらない作品に共通する点があることに気がついた。それは

1.   型通り医学を図示することで満足している。

2.   テクニックで上手に描く範囲に止まっている。

3.   伝わらなくても仕方ないという諦めが透けて見える。

4.   技術的に稚拙である。

5.   デバイスなど技術を使いこなせず、技術に使われてしまっている。

6.   医学の学びを表現しきれていない。

といった点である。これらの欠点の根底には、メディカルイラストレーションを医学に帰して安心してしまっていること、イラスト世界に閉じて終わっていることがあると考える。医学に帰してコモディティ化してしまうのではなく、狭いイラスト世界に閉じて学びをやめるのではなく、第三の眼を育てることを目指したい。すぐれた作品からも学びながら、これからのメディカルイラストレーションに必要な根元的な視点として医療生態心理学を提唱したい。

 アフォーダンス理論とオートポイエーシス理論はともに、極めて個人的な感覚体験に深く潜りながら分析することで、不変的な理論に到達する道筋を与えてくれる。医療・医学も、患者体験も、イラストレーション制作も個人の感覚に深く根を生やしている。これからの章で私の個人的感覚体験を経由しながら、医療生態心理学の全体像をスケッチしていきたい。

2.   触感をめぐる個人史


 私は長崎県佐世保市で生まれ、兄と妹を持つ次男坊として高校卒業まで過ごした。幼い頃の触感に関する記憶としては、夜寝る時に目を閉じると両手の五本の指と口の周りがだんだん膨らんでいき、部屋全体に巨大化し、この世の中に満ち満ちていく感覚である。それは嫌な感覚ではなくワクワクするような創造的な感覚だった。読者にも同じような記憶を持つ人がいるかわからないが、私自身は今でもありありとこの感覚を思い出すことができる。医学生の時にカナダの脳外科医ペンフィールド

が描いた巨大な手と口を持つ脳の中の小人の絵(体性感覚のボディマッピング)を見た時に、自分の感覚の理由がわかった気がした。

 私の両親は通信インフラ大手であった当時の電々公社(現在のNTT)で働いていた。父は技術職、母は電話交換手であった。小学生の時、電話の歴史と仕組みについて自由研究を行ったことを記憶している。また五年生の時に父の職場で初めてパソコンに触れたこと、自宅にNECのパソコンがあったこともよく覚えている。郊外にある段々畑を利用してできた住宅地の実家での記憶を書き連ねてみる。

 「門柱の鉄の匂い、庭の砂利と乾いた敷石の感触、晴れた日に温められたトタン屋根が鳴る音、屋根から落ちる雨垂れでぬるんだ土の匂い、暗い土間で祖母が履くぞうりの擦れる音、黒い柱のひんやりした触感、橙色のソファーカバー、増設した廊下の軋み、固めの木でできた階段のニスの匂い、父の書斎の重いドアを開けるときの感覚、ひんやりしたお風呂のタイルの感触、柱時計の機械音、洋裁をする祖母の足踏みミシンの鉄製部品のがっしり感、祖母に作ってもらった半纏のごわごわ感、母が作ってくれた指人形に指を入れる感触、飛び出すトースターで焼いたパンにバターを塗る時の音、父の部屋につながるインターホンの受話器の触覚と呼び出し音、父の持つギターの弦をこっそり弾いた時の深い音、ダイヤル式黒電話を回した時のバネの感触」などなど、当時の感触を伴っていくらでも思い出すことができる。

 これらは誰もが持っている原体験としての感覚にすぎないだろうが、驚くほど触覚の割合が高いことに気がつく。また聴覚や視覚、嗅覚の記憶であっても、ほとんどの場合、触覚の記憶も伴っている。これらの触感の記憶を反芻する時、気持ちが落ち着き居場所のある安心感を思い出すことができる。テレビはあったが、両親が自由にテレビを見せない方針だったからかモニター上の記憶はわずかしか無い。フィルムカメラの重い機械の感触と現像写真の匂いはよく覚えている。

 父は無類のオーディオマニアでもあり、自宅には手作りのスピーカーやオープンリールを始め様々な再生機器がゴロゴロしていた。当時は珍しかったオーディオルームは防音加工した壁材で内張りされ、中に入る時はレコードプレーヤーなどの精密な機械を害さないように、洋服のホコリをはらって「入室」することになっていた。レコード盤もプレーヤーの針も消耗品で、傷つくと明らかに音質が劣化した。LP盤に針を落とす時の息を飲む感じ、針が溝を滑る時の感触、コンデンサで増幅され、お手製スピーカーを震わせてからだ全体に響く交響曲。当時の再生機器はとても肉感的であった。

 音響再生の歴史はその後、カセットテープからCDに変わり、MDを経てネットのデジタル配信に置き換わった。再生機器もミニコンポからウォークマンを経て、ipod、スマートフォンに移り変わっていった。それはいつでもどこでも高音質の音を好きなだけ聞くことができる気軽さと、全く音質の劣化がない安心感、レコード屋さんに出かけることなくダウンロードで購入でき、人のことを気にせず個人の世界で楽しめる便利さの実現であった。しかし一方で、これらの技術革新により、音響再生に伴う豊かな触感を一つ一つ消し去っていくことでもあった。一斉を風靡したオーディオメーカーたち(オンキョー、ビクター、ソニー、オーディオテクニカ等)は廃れていき、音響再生部門から撤退していった。音楽ビジネスは1990年代のCD販売とコンサートの抱き合わせによる収益モデルバブルがはじけ、現在、プラットフォーマーのサブスクリプションサービスに置き換わられている。

 今、私の一番の音楽体験は、娘たちが自宅で楽器の練習をする事、所属する吹奏楽部の演奏会に参加すること、4Kビデオで撮影したそれを家族で楽しく聞くことである。人の物語より自分の物語の方がはるかに面白い。娘たちの演奏する姿を通して豊かな触感が復活している。

3.   美術部で学んだこと〜絵に秘められたパワー

 中学・高校時代は美術部に所属し、デッサン・油絵を学んだ。西洋絵画に心惹かれ、貪るようにたくさんの画集を見まくっていた。3年時には部長として、高校美術展に県代表として選ばれ岡山県立美術館に作品を出品した。その時に顧問の先生に連れられて訪ねた「平櫛田中美術館」での木彫作品の衝撃は今でも忘れることができない。3年間デッサンの面白さに夢中になり、自分の手の動きと画面が対話する中で、新しい空間・実態が生まれ出る不思議に心を奪われていた。 

 何に夢中になっていたのか、大人になってからその一端を説明してくれる本に出会った。ベティ・エドワーズ著「内なる創造性を引き出せ」2)である。視覚的な言語について述べている部分を引用したい。

「絵は直線的な時間に縛られないため、過去、現在、未来を含む複雑な相互関係を明確にすることができます。また、複雑すぎたりあいまいすぎたりして言葉の『縮小レンズ』に収まらないアイデアや感情を表現することもできます。さらに、言葉が必然的に一定の順序に組み込まれるのにたいして、絵は一つのイメージとして瞬時に把握される相互関係を明らかにすることができるのです。

 しかも、絵は情報にあふれていて、共通点をきわだたせることも、相違点を描写することもできます。絵を描くとき(中略)、「目の前」(あるいは心のなか)にあるものをなんでも見ていると同時に、ばらばらに見えるパーツ同士を結びつける統一的なパターンや関連性を探していると思われます。いいかえれば、絵を描くという行為は、全体像をつかんだり、状況を見きわめたり、物事に焦点を合わせたり、問題に注意を集中させたり、木と森を同時に見たり、パズルのピースを視覚空間のなかで動かしたり、なにかを明確に理解したりするのに役立つということです。さらには、最初の直観を得たり、問題の所在をつきとめたり、すばらしい疑問を提起したりするうえでも役立つのではないかと、私は考えました。(引用終わり)」

 この文章を読んだ時、言語とは違う絵が持つ表現力の特性について眼を開かれる思いがした。すぐれた画家や漫画家が自在に操ることのできるこれらの表現法を、私も身につけたいと強く願っている。

4.   家族の大ケガ〜触感という信頼の土台

 中学生のとき家族の一人が大ケガを負い、手術により急死に一生を得たが障害が残った。人間のもろさを実感する体験だったが、皮膚感覚で自分のからだが傷ついたように感じたことを強く記憶している。身内のケガや病気が特別な体験になる理由は、皮膚感覚を共有していたからではないだろうか。高校卒業後、医学部に入り皮膚科の教授に「人間の愛情は言葉ではなく、皮膚の接触から育まれる」と教えていただいた。目も見えず言葉もわからない乳幼児の頃、保護者に抱かれ皮膚と皮膚が接触する感覚から安心と安らぎを感じ、愛着や信頼感の土台を形成していく。

 2016年に出版された書籍、「触楽入門 はじめて世界に触れるときのように(中谷正史ら著)」3)には以下のような記述がある。

「赤ん坊だったころ、私たちは触感中心の世界に住んでいました。(中略)赤ちゃんの五感の中で発達が早いのは、なんといっても触覚です。(中略)赤ちゃんにとっては触ること、舐めることの方が、見る/聞くことより、確かな情報を得られるからです。」

そして京都大学の研究グループによる新生児の脳活動を計測する実験4)が紹介されている。


「彼らは、赤ちゃんがもっとも反応するのはどの感覚かを調べるために、『光を見せたとき』、『音を聞かせたとき』、『指に振動を与えたとき』(つまり触覚を与えたとき)の、3つの場合の脳活動を測定しました。すると、触覚刺激のときは、側頭部から頭頂部にかけての広い領域で脳活動が見られました。視覚、聴覚刺激に比べてずっと広い領域に及んでいます。しかも、成人が触覚情報を処理する感覚野を超えて、その周辺領域や聴覚野などにまで活動が広がっていました。(中略)触覚刺激によって視覚野や聴覚野の脳活動が見られることが示されていました。こういった感覚統合が生後わずか数日から始まるおかげで、人はだんだんと、触れることなく、見ただけで物事を把握できるようになってゆくのです。

 成長するにつれて、視聴覚的な記憶は、圧倒的な量をもって触覚の記憶を塗りつぶしてゆきます。そして大人になると、もはや触覚を意識的経験の中心に据えて過ごすことはほとんどなくなってしまうのです。」

 この研究により、赤ん坊のころに触ったものと見たもの・聴いたものの情報を統合していることがわかった。人間は誰もが視聴覚の土台として、豊かな触覚的経験を持っているのだ。触感は自分の身体感覚や世界に対する信頼を育み、自分と世界がつなぎとめられている確かな感触を形成しているのである。情報通信テクノロジーは視覚情報の世界を飛躍的に広げたが、そこでの信頼感は個々人が幼いころに育んだ触覚ー視覚の統合体験に依存している。ネット環境によって自分が分断されていくようなあやふやな感覚が生まれることがあるが、触感を伝えるテクノロジーがまったく発達しておらす、むしろ排除していくことを目指してきたことが一つの原因であろう。

5.   空手部で学んだこと

 佐賀大学医学部に進学後、空手部に入部した。それまで受験勉強と絵を描くことしかやってこなかったため、精神的にも身体的にもストレスフルであった。しかし大きなカルチャーショックを受けると同時に、人間の認識に関する目を開かされたと感じている。受験勉強では自分が体験していないことを必死に理解し暗記することに情熱を傾けていたし、絵画制作では静止したモチーフと自分の想像したイメージをじっくりと時間をかけて描ききることを行っていた。一方、空手部では入部した日から、躍動する先輩たちのからだを見ること、大声で気合いを入れること、全力で突き技、蹴り技を繰り出すことが始まった。日々、自主練をしては先輩にチェックしていただき、技の正確性と鋭さ、指先・つま先まで意識を込めることを必死に習得していった。そのうち、空手に独特の用語である「正拳、拳頭、虎趾、四股立ち、前屈立ち、足刀蹴り、手刀」などの意味することが体感で理解できるようになってきた。入部当初は見えていなかった細かな部分が見えるようになっていった。

 空手は戦いの技である。技を身につけながら、動くことも学んでいく。相手が殺意を持って向かってくることを想定して、ぶれない精神を持って自遊自在に動き、鋭い技を繰り出すことを目指して年単位で修練していく。自分の身を守りながら、困難を恐れず大きな志を抱いて立ち向かっていくことを教えていただいた。

 私が学んだ道場のユニークな点として、人類の歴史に則って「野生的」に生きることの重要性を教えていたことである5)。ホモサピエンスは誕生して20万年という長い間、狩猟採集民として過ごしてきた。その後、世界各地で、農耕あるいは動物の家畜化を始め、自らの手で食料を生産するようになるが、それは約1万年前のことである。それからさらに時代が下り、18世紀後半、歴史上初めて産業革命が起こり、工業化、都市化などの近代化が起きた。情報革命が起きたのはたかだか20年前である。今でも私たちのからだは狩猟採集生活に適応した構造と働きを保っている。座りっぱなしで情報の記憶と処理をする現代生活は生きる力を弱め、大きな志を抱くことをできなくさせている。そういう考え方で指導されていた。

 空手部での経験はとても大きかった。人間のからだと認識の成り立ちについて深く考える時間を過ごした。そこで得た知見は、人が病に陥る生活習慣を取ってしまう理由や、患者さんにどのように対応するべきかを考える場合、また絵画が人に与える意味やメディカルイラストレーションをどのように描くべきかなどについて考える土台になっている。その意味を捉えなおすことに役立った書籍を紹介したい。認知心理学者である佐々木正人氏の「からだ:認識の原点」6)である。日本におけるアフォーダンス理論の第一人者である佐々木氏が若き頃に記した書籍である。認知科学のシリーズものの一分冊として発刊された本書には、私が考える医療生体心理学の基盤となる多くの重要な示唆に富んでいる。

6.   佐々木正人著「からだ:認識の原点」

 この書籍の中で佐々木氏は様々な文献や実験研究を参照しながら、「見ること」「ひろがり・空間の感覚」「イメージをつくりだすこと」「記号をつくること」の根底に、「からだ」があることを解き明かしていく。

6-1.     見ることとからだ

 HeldとHeinは猫の実験から「動きが制限されている状況では、見ることの成立が遅れ」「ある種の歪みを引き起こす」ことを明らかにした。「動物においては見るということはそのからだが動くことと一体」であり、「自らが引き起こす動きに伴う視覚的なフィードバックが、視覚ー運動行動の成立に不可欠」であると述べている。そしてこのような(見えを成立させている)からだの動きを、「むかうアクション」と規定した。

 次に人がものを見るときの眼球運動の記録から「対象の輪郭にそって、それをなぞるように起こる柔軟な眼球の動き」が「対象の正しい見えをつくりだすための重要な要因」であることを明らかにし、その軌跡が対象の形に同期し、その姿を再現するように起こるこの動きを、「なぞりアクション」と規定した。なぞりアクションは視覚にとどまらず「対象への同調・同期を特徴とするからだの動き」であり、文字や絵画などの視覚的表現を理解するためには「対象の触覚的性質、なぞれる性質」が重要な役割を果たしていることを示した。

 五感と呼ばれる感覚の中では視覚を優位とする考え方が一般的であろう。映写機からブラウン管・液晶モニターへつながる表示媒体の開発史においては、視覚以外の感覚情報を排除することで情報伝達を効率化する意図が見られる。そこには視覚にとって理想的な環境を求めるあまり、からだを無視した「静止パラダイム」が支配している。一方、これまでの視覚研究の中には「触覚」を優位と考える研究者や、視覚、聴覚、触覚などを貫く感覚情報の不変構造として「動き」があると考える研究者がいる。彼らは「意識された視覚の下には、無意識における触覚や身体の動きの感覚がある」と主張している。先に述べた「なぞりアクション」は、「むかうアクション」に裏打ちされてこそ本来の働きを持ち、二つのアクションに裏打ちされてこそ、「見る」ことが確かな意味を持つわけである。このことは視覚優位の情報処理に慣れた現代人には違和感があるかもしれない。しかし誰もが成長の過程で獲得してきた「見え」には、その土台をなすからだの役割があったことは確かであり、私た

ちが命ある限り保持することになる、AIカメラと異なった「からだモダリティ」の特質なのである。

 このことは外科医となってから手術手技を覚える過程で、深く実感された。手術書を読むだけより、手術助手につくことが「術野の見え」を促進し、助手よりも術者になることがさらに見えを強化した。手術は数時間にわたり全身で患部に集中(むかうアクション)して、手やデバイスで臓器の形を操作する(なぞりアクション)行為である。その後は手術記録を読む際にも「からだのアクション」を想定しながら読むようになり、術野をありありと実感することができるようになった。それだけに留まらず、手術場から離れ、病理医として顕微鏡で細胞を眺めるときにも、患者のからだを何年も見続けた内的なアクションが作動し、「見え」を深め、理解を促していることを実感している。

 書籍では、絵画や彫刻作品の中に仕組まれた「からだ成分の重要性」についても触れられ、「我々がものを見ることにおいて、対象を触覚的に探索した体験にいかに多くを負っているか」が説かれる。人の絵を見るより、自分で描いた絵の方が何倍も心に残る理由もよくわかる。メディカルイラストレーションの制作においても、自分のからだごと対象に向き合うことで見えてくるものがあるはずである。作品を見る人がどのようなからだのアクションを刻んでいるか、どの部分に細かく深いこだわりを持っているかを理解することも、描き手としては大切にしたい。

6-2.     ひろがり・空間の感覚とからだ

 ここではパーソンズと下條の実験が引用される。読者の皆さんは幼い頃、背中に指で文字を書かれ、描かれた文字を当てる遊びをしたことがあるだろう。彼らの実験は、これを全身のありとあらゆる部位で行ったものである。その結果、からだのほとんどの部位では、書かれた文字がそのままの形で被験者に読まれた。一方、からだのある部位だけは、左右反転した文字として読まれたのである。からだの多くの部分では文字が外側から見られているように読まれたのに対し、そこだけは内側=からだの奥から外を見るように、文字が反転して読まれたという。その場所は、額・眼の周囲、手のひら、下くちびる、舌の面、前方に上げた足の裏であった。これらの部位はからだの中でも可動性が高くよく動き、感覚が敏感な部位と一致している。真っ先に外界・対象の世界に触れ、密接な関係を保ちながらつくりあげられてきた「むかうアクション」の領域といえる。このような外に向かう部位にのみ、「見る」視点がからだの内側にあるのである。

 からだの周囲にひろがる空間は、人にとって均質な物理空間ではない。からだの前、胸の前の空間は人にとって特別であり、顔、胸、両手で囲まれる空間は、我々が実際に事物に触れる「むかうアクション」の実行の場であり、からだの内側からの視線で対象を見る磁場を形成しているのである。手術行為も、看護も、勉強も、イラスト制作も、料理も、育児も、メディア視聴も、あらゆることがこの空間の中で行われており、その人にとって特別な広がりを持っている。人にコンテンツを届けるとは、この特別な磁場を持つ空間に投げ込むということである。多くのゲームやスマホアプリがこの場所の奪い合


いを熾烈に行っている。オランダの画家、ヨハネス・フフェルメール レースを編む女 1669年

(wikipediaより引用) 

ェルメールの絵画には、この空間での行為に没頭する姿が数多く描かれており、私はそのことも人気のひとつの要因と考えている。


さらに広い空間を考えてみよう。人にとって空間を感じるということは言語よりも根元的な感覚である。一般に空間は視覚で捉えられると考えられているが、それだけでは足らない。視覚は能動的なからだの動きにともなう世界の見えの変動を前提として、安定した空間を発見するための感覚として働いている。からだの動きに伴って世界がダイナミックに変化しながらも、しかし、そこにあり続けるというのが我々にとっての「空間」の情報である。空間はからだの動きを媒介にして、その安定し不変な姿が描き出される時にはじめて知ることのできるものとなるのだ。「空間」はこうした意味で、まさに「からだ」にその起源を持っているといえる。視覚に限らず、聴覚・嗅覚・触覚の感覚が空間を描き出すためには、からだの動きを軸として世界の不変性を表現する働きをもたらすことが必要である。

 次に的場による地図の実験が引用される。目隠しをされた被検者が手を引かれて歩いた道順を「こころの中に描いた地図」で答えるといったものだ。その結果、人が頭に描く地図には2種類あることが分かったという。一つは鳥瞰図的に上空からの視点で描かれた地図。そしてもう一つは空間を歩き回る体験の中で、様々な場所を直接意識する「そこにある感じ地図」である。これは移動による空間との接触の体験を色濃くのこす地図であり、ある場所で色々な方向を向き、そのなかの自分、その周りにひろがる空間の情景をイメージすることのできる

地図である。

 単一な視点による束縛を宿命づけられた鳥瞰図は広く使用されている。一方で空間の領域での「なぞりアクション」とも呼べる、歩行によって獲得される「巡回空間」は、視覚的な空間意識の深層をなす、もうひとつの空間意識を作り上げているのだ。確かに何年も歩き回ったことのある街の中は、鳥瞰図的な地図よりも自分の記憶の中のイメージの方が豊かで有用であると思われる。長い時間をかけてからだに刻まれた空間地図は、一定の年齢以上の人は誰もが保有しているものだろう。絵画においても古典的な山水画や印象派など、この空間地図をモチーフにしたであろう作品は多く存在する。メディカルイラストレーションにおいても、医師や研究者などが長年かけてつちかい、抱いている専門領域の空間意識のあり方を共有できれば、言語的表現力しか持たない彼らに代わってイメージ空間として描き出してみせることができるだろう。

6-3.     記憶・イメージをつくりだすからだ

 ここでは内的な記憶の中のイメージとからだの関係が述べられている。イメージはメディカルイラストレーションの制作において最重要と言っても過言ではないだろう。医師の仕事においても、医学の学習、研究、手術の習得、診療場面などにおいて常にイメージを描きながら行っている。素朴なイメージの考え方としては、視覚情報の記録と再生に類似したものというのが一般的だろう。本書において佐々木は3つの観点から、「からだ」がイメージの認識に大きな役割を担っていることを解き明かしている。

 一つ目はイメージの形成の過程にからだの動きが大きな役割を果たしている点である。例として「空書」が取り上げられる。空書とは指で手のひらや膝頭、あるいは空中に書を描くように動かす行為である。分解した漢字を組み立てる課題において、日本人や中国人など漢字文化圏に住む人の多くは、空書をすることでイメージを思い浮かべやすくなることが明らかになった。西欧語を母語とする人たちの多くが、単語を音声の連なりからなる、聴覚的な表象として記憶しているのに対し、漢字修得経験を持つ我々は、単語を「運動感覚的な成分をともなった視覚的な表象」として記憶しているという。アルファベットに比して膨大で複雑な記号の集合を視覚的な方法だけで記憶することには限界があるのだろう。このことから、イメージの中には非視覚的なからだの動きに由来する成分が含まれているものがあると分かる。

 イメージの運動感覚的成分に関して、私が強く実感するのは医学のイメージである。途中に1年間のポリクリがあるとはいえ、6年間の座学では確固としたイメージを作ることはできなかった。その後の2年間のベットサイド研修、外科専門医取得までの手術研修、検査・麻酔などの実技研修、外来と病棟での数百人単位の診療を経験する中で、多くのからだの動き・運動感覚を積み重ねることで、ようやく膨大な病気と医学のイメージが自分のものなったと感じる。もう一つの例はデッサンの習得過程でのイメージである。デッサンの教科書を読み、実際に描いてみることの繰り返しの動きの中で、デッサンに関する用語のイメージが習得されていった。「構図、パース、明暗、輪郭線、ハッチング、質感、量感、全体感、空気感」などのイメージはからだの運動感覚と一緒になってようやく理解できる。二つの例とも、繰り返し行った動きの感覚を基底に事物を表象していることが理解される。

 二つ目はからだの場に開かれたイメージ記憶について述べられている。仏教者が長い経典を念仏の形で唱えることにより、からだで覚えること。伝統芸能の能楽師が一つの演目を繰り返し演じることで、からだ化すること。合唱部の合唱、空手部の型演舞にも見られるものであり、からだという「場」の強大な記銘力を利用した事例は数多くある。また、幼い頃に習った手遊び歌(「むすんでひらいて」など)においても、その歌詞記憶は、ことば、歌、動作の3つの構成要素が一体となって成立しており、ことばの記憶はその韻律的な要因を核として成立している。韻律性とは音の高低や強弱、音調などと同じく、言語の「からだ」的側面と言え、「意味」を構成する分節的側面とは異なっている。

 コラーズらはイメージを成り立たせている「記号」について二つの種類があるとし、一つは複製可能で誰もが同じように扱うことができる「分節的で共有的な記号」。もう一つは記号を構成する諸要素に分解することが不可能で要素の同定自体が困難な「濃密で個人的な記号」である。後者は我々と世界とのかかわりの過程を強く残存させた「経験依存的・歴史依存的」なこころの記号と言える。以上のように、イメージには我々と対象とのかかわりの「場」に強く依存するものがあることがわかる。

 この例として、私は病理専門医試験の受験勉強を思い出す。病理学は疾患分類学でもあり、一度も聞いたことのない呪文のような疾患名を大量に覚える必要がある(例:皮膚科の疾患であるジベル薔薇色ひ糠疹、など)。私は講習会の録音音源を繰り返し聴きながら、何度もノートに書き込み、ブツブツつぶやくことでからだに記憶させていった。そこで身につけた「個人的な記号」は、その後の診断経験の中で「共有的な記号」とすり合わせることで診断業務に使いこなせるようになった。

 また学位論文の研究の過程でも、数年間にわたって医学論文の輪読会で自分で翻訳したものを繰り返し発表しながら、論文そのものの成り立ちを覚え、テーマとする領域の関連論文と自分の研究の関係を図解しながら、新規の結果を意味づけていった。私にとって研究という場は世界の学会・専門雑誌の中に意識を広げながら、からだの場に依存したイメージを形成していくことだった。今でも海外の論文を読むことは、からだに刻まれた医学的世界の地図に位置付けること、新しく更新することと感じている。

 三つ目は「むかう」からだとイメージの成立について述べられている。「自分でからだを動かすこととイメージ」「予期する意識とイメージ」「姿勢反応とイメージ」の3点について解説する。

・自分でからだを動かすこととイメージ:前項で触れた分解した漢字成分を組み立てる実験での「空書」について、自分で空書を行ってイメージする場合と、他人に指を動かしてもらいながらイメージする場合を比較した。その結果、後者の正答率は前者の1/3程度に低下してしまったのである。この結果は自由にイメージを操作するためには、からだを自分で動かすことによって起こったものでなければならないことを物語っている。

・予期する意識とイメージ:イメージの発生が写真を撮るように「モノ的に固定される」という考え方がある。一方、対象を探索する中で図式が生まれ、さらなる探索による図式の修正を行うという動的な知覚の成立の考え方がある。これを知覚循環と呼ぶ。この過程の中で対象に向かうこころの状態、すなわち予期すること(知覚的な準備の構えをとること)が、イメージの発生源となり得る。予期の意識としてのイメージは、「空書」の動きそのものの中に現れている。ここでは何かをイメージするという意識体験の一部がからだの動きそのものであり、対象の姿を発見しようとする我々の意識の現れと考えられる。

・姿勢反応とイメージ:「むかうアクション」が知覚に反映されることを先に述べた。また同一のイメージを保持するということが、同じ「姿勢」を取り続けることと密接に関連していることは多くの人に実感されることだろう。このように外部世界の知覚が自己のからだの「姿勢」として現れることがある。例えば「心地よさ、脅え、恐れ」という感情が、からだの「弛緩、身構え、震え」として現れる。このような内的イメージと姿勢反応の現れは、他者への強い伝播力を持つ情動の舞台でもある。強い交信性を持つからだの場からイメージが発生することで、我々相互のイメージの共通性を説明することもできる。

 以上のイメージとからだとをつなぐ3つの視点は、相互に重なり合って、イメージに反映されるからだ成分の重層性を形作っていると考えられる。

 ここで触感とイラストレーションの関係について、非常に興味深い取り組みを紹介したい。東京芸術大学教授で、「ピタゴラスイッチ」の監修に携わるクリエイティブディレクターである佐藤雅彦先生の著作「指を置く 平面グラフィックの上に指が関与すると、どういうことが起きるか」7)である。

佐藤雅彦 著「指を置く」より引用

 各ページには絵や図が描かれている。指定に従って自分の指をその図版に置く。例えば光る電球から2本の線が伸びる図版がある。読者は2本の線の先端かに両手の人差し指をそれぞれ置く。すると「指先から電流を注入した結果、点灯した」という錯覚が生じる。

 この本の表紙の図では、指を置くことで「影を引っ張った、さらには影を引っ張ることで実体を引っ張った」という感覚にとらわれる。

 私たちは書籍やテレビ、映画に向かうとき、自分自身を消し去っているが、ある図版に指を置いた瞬間、図版中の出来事を自分が引き起こした、あるいは自分が巻き込まれたという感覚に誘われる。つまり指を置いた結果「紙メディア上の出来事が自分ごとになってしまう」。そこでは従来のメディアと視聴者の関係を根底から変える何かが起こっているのだ。

 触覚を使うことで人にとってオリジナルな意味が生まれる。これは哺乳類から発達した人間という種に特有の強みであると言えるだろう。医師が自分の手を使ってイラストを描く時に感じる意味や、一般の人が臓器のスケッチを体験する時に感じる意味を含めて、メディカルイラストレーションを描く体験の価値を読み解くヒントを与えてくれている。

 また、デジタルテクノロジーに接する私たちにとって、インターフェイスであるタッチデバイスが開いた意味は想像以上に大きいのではないだろうか。今後は触覚がデザインされ、デバイス上で再現されることでデジタル空間を体感できる時代が来るかもしれない。

7.   情報通信テクノロジーと医学世界全体を読み解く医療生態心理学

 パラダイムシフトを起こしながら驀進する情報通信テクノロジーと人口知能、それらに確実に浸されていきデジタルトランスフォーメーションに向けて否応なく突き進んでいる医療・医学世界、多くの医療従事者が労働集約的に働いている医療現場、そして現在の高齢化率28%から30年後には38%になると予想されている日本社会と増加する患者たち。私の野望はそんな医療の世界をアフォーダンス理論で捉え、表現に活かすための道筋を作ることである。30年間の医学経験をフルに活用しつつ、メディカルイラストレーションが縦横無尽に活躍できるための理論的土台を構築したいという欲求に基づいている。しかしその完成は一人の人間の一生をかけてもおそらく不可能であり、多くの人の叡智が集まらなければ達成できない。ここで述べるのは大まかなアウトラインに過ぎない。

 生態心理学(Ecological psychology)はジェームズ・ギブソンが創始し、日本で佐々木正人氏を中心に発展を遂げている心理学である。知覚システム(身体論)、生態光学(情報論)、アフォーダンス(環境論)を柱とし、(人を含む)動物ー環境系を基本単位とする心理学である。医療生態心理学はこれを医療分野に応用し、メディカルイラストレーションの基礎理論として構築しようとするものである。現実世界・デジタル世界・概念と心の世界・絵の世界の4つを同じ原理で捉える方法である。その射程となる範囲は、臨床医学全般、基礎医学研究、看護学、検査医学、リハビリテーション学、患者体験(ナラティブ)、医学分野の情報通信テクノロジーまでを含む。

 アフォーダンス理論を身につけるということは、世界の在り方、人の在り方、自分の在り方を含めてアフォーダンス的に理解する自己を作るということである。医療生態心理学ではこれに加えて、目には見えない分子レベルの物質の挙動から、学問的抽象概念や数的・統計学的データ、論理概念も含めて理解する。さらには病者の実感や感情、看護者の思考過程をも視野に含めている。


このように一見、何でもありの節操のなさにも見える自在性を保証しているのが、オートポイエーシス理論である。オートポイエーシス理論は生命システムの固有性の記述するためのシステム論であり、「自己生産」と訳されることもある8)。この理論によれば、生命には四つの特徴があるとしている。

 第一に、自律的であること。

 第二に、一つの個体であること。

 第三に、外界との境界を自己決定していること。

 第四に、外部からの入力も、外部への出力もないこと。

 このように観察者の俯瞰的な視点ではなく、駆動する生命そのものの当事者の「視点」を重視する考え方である。科学的生命史を見ればわかるように、目的があって生命が生まれたのではなく、物質の相互作用によって活動が始まったのであり、そこには「目的など存在しない」と言える。「今この瞬間」の相互作用によってのみ生は立ち上がるのだ。オートポイエーシス理論は目標に向かう過程ではなく、生命は自ら動き続けることによって自己決定できると考えるシステム理論である。生命だけでなく社会や学的世界もその表れとして見ることができる。コミュニケーションの発生と繰り返しにより社会は生まれ続いていくのであり、目標やゴールはそもそも存在しない。ただしオートポイエーシスは刹那的で無計画な生命を支持するのではなく、「自分を維持していくのだ」という強い意志でもある。当事者の視点と、目的論に縛られない融通無碍さを持ち、主体的に自ら動くことを支持するオートポイエーシス論は、医療生態心理学を

支えるシステム論である。

 オートポイエーシス論、アフォーダンス論ともに、身体を持つ生命体としての人間と環境・情報の関係性について、全く新しく考える世界観であり、近代に構築された見方をひっくり返してくれている。これらによって、メディカルイラストレーションを人が描く意味が掘り下げられ、見えない世界や概念を表現する可能性が開かれ、全ての医療の専門分野を貫く視点が作られ、情報テクノロジーに翻弄されない確固たる自己を形成することが期待される。そのためには、アフォーダンス的に医療世界を見ることができるように、自己のオートポイエーシスシステムを変換する努力が求められる。

 日本生態心理学会の趣意書9)にはこう記載されている。

「生態心理学は新しい学問である。それは生を包囲していることの規模が、どれほどのものであるかを知る者だけが行いうる科学である。人文科学から自然科学まで、心理学、生物学から物理学まで、現存する多くの学問領域を包含する壮大な構想である。」

 この情熱あふれる言葉を支えに、残りの章で医療世界をアフォーダンス的に捉える試みを記述したい。

8.   医療生態心理学とは〜「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」に基づいて

8-1.     医療生態心理学の概略

 医療生態心理学は医学・医療という巨大な環境の知覚に関する学問・心理学である。それに関わる全ての事象をアフォーダンスの言葉で語ることを目指している。主観を大切にしながらも独善に陥ることなく、環境に根拠を置いた共有・共時のための心理学である。医者の主観世界・客観世界と、患者の主観世界・客観世界を同じ原理で解き明かそうとする方法である。

 その原動力は、ありきたりのメディカルイラストに満足せず、一回性の体験を常に新しく描きたいという強い欲求である。医療者が現場で対象に没入し、行動することで初めて実感している認知がある。研究者が年余にわたり論文を読み込み、リサーチすることで初めて感得している知覚がある。これらの没入体験の中に、「描き手としての自分」をそっと差し込む為にアフォーダンス理論がある。私がメディカルイラストレーションを描く、のではなく、アフォーダンスの目で医療体験・医学研究を分析することに没頭する中で、メディカルイラストレーションが新たな私を見せてくれるようになるはずである。

 具体的には生態心理学の基本書である、佐々木正人著「レイアウトの法則 アートとアフォーダンス」10)を基準として、医学・医療を読み解いていきたい。

8-2.     肌理、レイアウト、アフォーダンス

 分子、細胞、組織、臓器、個体、小社会、国家社会の各段階には、全て独自のレイアウトがある。肌理は入れ子構造になって地球上を覆い尽くしている。私たち自身も肌理の1つとして生まれ、体内に重層する肌理を宿しながら、周囲の肌理とともに生きている。家族の肌理、生活の肌理に囲まれて心を形づくり、学校生活の肌理、仕事場の肌理によって社会のレイアウトを学び、子供を授かれば赤子の肌理を喜び、時が経てばシワを刻んだパートナーと自分の肌理をいとおしむ。このようにして人は長い時間をかけて人生の肌理を織りなしていく。これら重層する肌理のレイアウトの中に定位するのが人生観である。

 医療・医学の肌理は誰もが持っているこれら人生の肌理の延長線上にある。その一方で、一定の教育的トレーニングを受け、顕微鏡などの専門的な機材を活用しなければ見えるようにならない領域がある。人体を構成する要素、各細胞・各臓器は肌理を作ると同時に、隣り合う配置にレイアウトされていることに意味を持つ。それらは互いに定位しあっており、このことを「分化」と呼ぶ。互いの定位だけでなく、個体の入れ子構造の中でナノメートル単位の要素からセンチメートル単位のそれまでが共時的に空間を共有して集合し、立体的な肌理を作っている。代謝活動はこれらの分化したレイアウト、立体的な肌理の場で行われ、「全てが変化しながら、総体として変化しない」「全てが変化するから、全体が保たれる」という動的なレイアウトが維持されている。それが生きているということである。

 医療とは独自の肌理を持つ人体に対して、行為と知覚でかかわることであり、人の肌理のレイアウトの中に、自分がレイアウトされることである。医療生態心理学は行為と知覚で周囲を描き出す心理学である。医療現場には多種多様な肌理があり、お互いに独自のレイアウト構造を持っている。研修医は病室の肌理、患者さんの肌理、レントゲン・CTに映る身体情報の肌理などに一気にさらされる。そこで自分のからだが分割されるような濃密な時間を必死で過ごすうちに、自らも現場の肌理にレイアウトされていく。

8-3.     大気の均質性、固さのレイアウト、レイアウトの変形、身体の定位、手

 大気は数種類の化学物質の混合物であり、その中で動物の呼吸という行為が生まれた。大気には均質になる性質があり、広大な均質性が地球の表面を覆っている。均質な大気は動物にあらゆる方向への移動を可能にしている。また均質の中の不均質性として、化学物質の放散による匂い、空気の振動波による音がある。知覚とは大気の不均質を探ることである。人々の生活は均質な大気で包まれ、呼吸運動と移動、知覚を担保されている。看護師は閉鎖空間である病室の空気の新鮮度に敏感になリ、人の発する匂いを健康情報として感知する。麻酔科医は気管内挿管チューブを通して、人体に送り込む気体の組成を厳密に調整し、意識レベルと痛覚をコントロールしている。全てのアーティストの表現活動はこの大気中で行われている。デッサンの修練ではモチーフを描くことで周囲の大気を描けるようになることが1つの目標になる。印象派は大気と光の関係を美術史上初めて正面に据えた。

モネ エプト川のポプラ並木 1891年

(wikimedia commonsより引用)

20世紀後半に始まり、21世紀に入って爆発的に広がった仮想的な均質空間がある。それがインターネット空間である。モールス信号に始まった単純な電気変化の伝達網は、やがてコンピューターの集積回路のネットワークに姿を変え、現在クラウドコンピューティングが世界中を覆いつつある。長い間、不均質であったインターネット空間も、グローバル資本主義の影響もあり急速に普
及・均質化してきた。この仮想空間は情報の移動を目的に設計されており、デジタル信号として光速で伝達される。今や誰もが地球の裏側の動画を数秒以内に見ることができるようになった。大気の均質性は生物の健康の土台をなしていたが、人間が作った仮想空間の均質性は身体性と切り離された人工物であり、今までのところ諸刃の刃である。人間が生み出した最大の均質性は、現状、欲望を反映したレイアウトが主体になっている。つながりや便利さ、理解の促進などにより健康に資する面も大きいが、つながりすぎることの弊害やネット依存、サーカディアンリズムの変調など健康を害する場合も多い。負の感情を増幅させたり、忘れることができないデジタルタトゥーの問題もある。人々の情報を集め、欲求をコントロールすることも可能になりつつある。大気の均質性に支えられた自分の健康を脅かすことのないような

接し方が求められている。

 医療・医学においては、情報のデジタル化が進み、プライバシーに配慮した閉鎖空間の中で蓄積・活用されている。今後は遺伝子情報を含めさらに仮想空間内での情報蓄積と流通が進み、空気のように情報の活用が行われるようになるだろう。

 仮想空間の均質性を前にして、私の体はあくまで一個の個体であることは変わらない。膨大なデジタルデータを、医療生態心理学に則って、どのようにデザインしメディカルユーザーエクスペリエンスを実現するのかが、私たちメディカルビジュアルに関わるものに問われている。

 環境を構成しているもう一つのものに、サブスタンス(物質)がある。独特な硬さや粘り、固形性、凝集性、弾性や可塑性を持つもので、独自のものらしさ(サブスタンシャリティ)を持っている。温度に応じて固体・液体・気体と姿を変えることもある。固さは単独では存在せず、「固さの比」に位置付いている。この勾配は重力が長い間かかって作り続けてきたレイアウトである。環境のレイアウト、固さの勾配が決定していく上で、「重力」が果たす役割は大きい。地球が丸いのも、地面に水平になろうとする性質があるのも、重力のせいである。重力軸は、下から順により重いものを配置する独特のレイアウトを周囲に作り上げた。地球上いずこの自然風景にもその成果が表れている。我々の身体も「サブスタンシャリティ」を備える以上、常に重力によって、下へと押し付けられている。動物表面はかならず地面に触れている。進化は重力に抗するために骨を作り上げた。巨大な恐竜の化石にも、現代の人間と同じ重力に抗し続けた結果の反応が表れている。生活することは重力とサブスタンスのレイアウトに関わり続けることである。静物画や風景画を描くとはサブスタンシャリティと重力によるレイアウトを発見し、再現しようとすることである。人物画を描くとは環境の中に配置した固さの勾配を描くことでもある。

 身体内部のレイアウトも重力による連続する固さの勾配にしたがっている。重い器官が軽い組織を圧迫し、それに耐えて筋肉が張っている。腕が動く時、指先の小さな筋から肩の大きな筋までが階層をなし、多数の骨は枝分かれしたベクトル空間をなしている。全身のレイアウトが、周囲の固さの勾配にそっと位置して起こる変形が「触る」ということである。「触る」ことは、周囲にある多数の固さの集合に、身体という多数の固さの集合がレイアウトされることである。外科医が内臓器に触れるとき、これが起こっており、患者の諸臓器は独自のサブスタンシャリティの勾配に位置している。手術とは身体・臓器のレイアウトの性質を探索し、変形することである。手はやがてレイアウトの細部とともに存在する身体の部分になり、手の繊細な動きがレイアウトと意味を共有するようになる。

 メディカルイラストレーションを描く時、均質な大気と重力の中に位置するサブスタンスを念頭に置くことが重要である。これらはマクロからミクロまで、形を持つものを貫く掟であり、視覚表現を理解させるフックとなる。そしてそれだけではなく、即物・実体的なモチーフではない「概念」の表現においても、均質性・固さ・引力の考え方は重要となる。環境と身体のインタラクションの中で進化した私たちは、思考過程においてもアフォーダンス的な考え方を多用している。例えば、ある議論の前提にある「均質的理解」とは何か、その化学反応の均質度はどの程度か、どのくらい理解が「固まって」いるか、その仮説の確実性は統計学的にどのくらい「固い」のか、その研究の方向はどこに向かって引っ張ろうとしているか、ある病の進展過程は何に牽引されているか。インフォメーショングラフィック等でこれらの概念を視覚化しようとする時、自分の身体理解に基づいた表現法を駆使することが有効である。

8-4.     絵画、生態光学の共有、変形下の不変、視覚の不変、あらゆるところに同時にいる

 絵画は視覚と関連しているが、生態心理学ではどのように説明されているだろうか。重要な概念として「生態光学」があげられる。大気中に放射された光は、空気中のチリや地面や壁や物など周囲のあらゆる表面の肌理に衝突し、散乱する。大気中のすべての点には、すべての方向からの散乱反射した光が交差する。そしてそこにいる動物は、すべての方向からの光によって包囲されることになり、これを包囲光と
いう。包囲光は周囲の表面のレイアウトを360度投影している。その場所ごとにユニークな光の構造を「包囲光配列」と呼ぶ。視覚は包囲光に含まれる環境表面のレイアウトがもたらす光の隣合いの構造を利用している。すべての動物は視覚の情報を共有している。


 画家は環境にある多様な表面の出来事を知る熟練した眼を持っている。そして絵画の鑑賞者は、色面に画家が発見した環境の意味を追発見する。環境と絵画の視覚を共通して説明する概念に「変形下の不変」がある。動物は環境を知るために動き続ける。物が動き、観察者の視点が移動することで露わになる性質がある。対象の形が刻々と変化する中で、初めてそこにそのものの「不変」が見える。観察者とものの表面の両者が静止している時に特定される遠近法的な形と、動いた時に現れる変形下の情報。その二つが周囲の表面のレイアウトの情報となる。画家はものの形とともに、ものの変形を描いている。つまりものの不変、ものの情報を描いている。絵画を見ることは、画家が発見して、表現しようとした不変情報を鑑賞者が画面に探すことである。画家とは視覚のリアルを画面に埋め込むことができたものであり、表現としての絵画はアフォーダンスを探求した結果である。

 以上が生態心理学が説明する視覚と絵画の関係である。それでは腹腔鏡下手術の視覚を考えてみよう。ライトで照らされた腹腔内は体腔液のミストや腹水で濡れた腹壁、腸管壁漿膜に乱反射し、包囲光を形成する。単眼鏡の場合、モニターに投影された像は立体視できない。さらにカメラとライトは一体であるため常に全光状態の画像となり、陰影による立体感も乏しくなる。その結果、遠近法による空間情報は後退し、もっぱら肌理の

レイアウトに由来する光の構造が情報の多くを占めるようになる。この時、威力を発揮するのが動きに伴う変

腹腔鏡下胃全摘術後、小腸再建のイラスト 筆者作

化の情報である。カメラが動いた時、臓器が動いた時、また術者の鉗子による操作が加わった時、刻々と変化す

る対象の中に、術者はそのものの不変を把握する。一つの手術が終わるまでに膨大な視覚的な変形及び不変の情報が知覚される。外科医として数年〜数十年の経験を積んだものには、「手術に伴う臓器の不変情報」が探求し尽くされ、結果として手術に関する知覚において「あらゆるところに同時にいる」11)という実感を持つに至る。環境の知覚が多くの遮蔽を超えながら、長い時間をかけることでようやく到達できる段階である。外科医が描く手術イラストは、この感覚の中で描かれていることを前提に評価されるべきものだろう。同じような感覚は、人が長い間住み慣れた街について抱く感覚でもあり、子を産み育てた親が子に感じるそれでもあり、料理人が食材の変化のバリエーションに、ベテラン教師が多様な生徒の変化に、ベテラン看護師が様々な病気の患者さんに、それぞれ感じる感覚でもある。さらに言えば、医学研究者にとっても専門分野の事柄に関して、多くの論文読解や思考の蓄積、実験の組み立てと評価、研究発表と国際交流を
経て、その分野の「あらゆるところに同時にいる」感覚を持っていることも了解される。

 イラストレーションを制作する過程も、対象を正確に描きとる中で、レイアウトに関する膨大な知覚のやり取りを行うことになる。私自身、何枚も写真をスケッチしたり、動くビデオをクロッキーしたりする時、対象の変形を知覚することによって、対象の不変も知覚できていることを感じる。またじっくりと一枚のイラストを作り上げている時、自分の認識自体が変形しながらイメージを作り出していることを実感する。ベテランイラストレーターはイラスト制作における「あらゆるところに同時にいる」実感を持っているはずであり、私もそこに到達したいと強く念じている。さらに医学の専門領域において、あらゆるところに同時にいるイラストレーション群を実現したいと考えている。

8-5.     2つ以上を同時に見る、生きる人の不変項

 視覚についてさらに考えを深めていきたい。生態心理学では視覚について、単純に「網膜に映る光刺激」とは捉えない。包囲光に包まれた人間にとって、視覚とは二つ以上のものを同時に見るという性質がある。それは何かを見るときその周囲やその細部を同時に見ていることであり、全体と細部を同時に見ているということである。加えて視覚は、知らない世界もとりあえず受け入れてしまう、見えてしまうという受容性がある。前項で述べた「あらゆるところに同時にいる」ような深い「見え」ではないが、グイグイと世界の中に入り込んでいく積極性がある。この受容性・積極性によって、視覚は私たちが周囲の光情報に包まれている(アンビエントな)感覚を生んでいる。

 さらに生態心理学では、視覚を単独で捉えるのではなく、様々な行為に伴った意識と、それに関わる光の
変化を含めて視覚の意識と考えている。例えば、目の前に倒れている人がいるとする。50代くらいの男性だ。口元に血が付いている。顔色が青白い。目を閉じて表情が苦しそうだ。これらのことを読み取る視覚を可能にしているのは、生まれてからそれまでに関わった膨大な人数の健康な人とのやりとり、ふれあいの中での光情報の蓄積が関わっている。私たちはだれでも「健康に生きている人」とはどういうものかということを光の変化の中に知っている。それが共有された健康な人間の不変項である。受容的・積極的な知覚である視覚には、不変項とのズレが見える。いくつもの「見え」が同時に起こり、病気に苦しんでいる人に関わる視覚が形成される。

 そばに座り、声をかける。返事はない。荒い息遣いを感じる。びっしょりと汗をかいている。腕をとると皮膚は冷たい。脈拍を取るととても弱く早い。このように自分のからだの動きに伴って「見え」が変化する。どのように行為するかによって病態の観察がうまくいくかどうかが決まる。「病人」に対する意識とはそれら全てを含んでおり、そこにある膨大な光の変化の事実が、視覚を可能にしている。医療者とは病人に関する視覚の不変項を共有する者たちである。

 写真を見るときの視覚も、基本的には同じ機構が働いている。写真には周囲のサーフェスのレイアウトが全てに焦点が合った状態で写りこんでいると同時に、固定された時間が写っている。

8-6.     行為だけが知っている周囲、物に潜在する計り知れない性質

 アフォーダンスとは、行為だけが知っていて、それがあるおかげで行為というまとまりが動きに生ずる、そういう周囲のことである。例えば料理人が食材をきざむ時、どのように押さえ、どの方向からどの程度の力加減で包丁を入れていくのか、食材ごとの性質に合わせて行為を調整している。私の経験した空手部では、組手で相手が繰り出した突きを受ける場面で、相手の体格と間合い、向かってくるスピードと突き技の方向に合わせて瞬時に調整した受け技を出す。この場合アフォーダンスのある周囲とは人間のからだそのものである。

 医師が診察をする場合、聴診をする、触診をする、神経反射を見る、いずれの場合もからだのアフォーダンスに合わせた診察行為を、その都度新しく組み立てながら行っている。静脈注射をする場合、針のついた注射器と相手の腕に存在する静脈という環境との間で、膨大なやり取りを行いながら、最適な行為を模索している。そこには言葉になっていないが確実に実感されるアフォーダンスがある。行為することを目指したときに初めて立ち現れる、もの・からだに潜む計り知れない性質がある。我々のからだはアフォーダンスという言葉がなくとも、そのレベルのことをずっと意識してきた。医療とは人のからだを中心にした膨大なアフォーダンスと行為のコレクションが潜在する一大分野である。

 さらには研究という複雑かつ複合的な行為においても、様々な行為の束(論文を読む、アイデアを練る、実験を組み立てる、データを取る、統計学的評価を行う、論文を書く、発表しフィードバックを受けるなど)のそれぞれが、それぞれに知っている対象の性質・アフォーダンスがある。これら細分化されたものの性質に加えて、研究という行為全体を組織化している大きな周囲を意識することもできるようになる。

 絵を描くことは、モデルのアフォーダンスに影響されながら、紙と鉛筆のアフォーダンスを使いこなしつつ、現れる絵(表象)のアフォーダンスに描画行為を調整されながら、完成を目指していく重層的で濃密な行為と周囲の対話である。メディカルイラストレーションは医療のアフォーダンスを知るものと、描くアフォーダンスを知るものの行為のすり合わせにより生まれる。

以上、雑駁ではあるが私が考える医療生態心理学のベースとなる概念について書籍を引用しながら論じた。医学とイラストレーションを貫く行為者の心理学として、また患者体験も視野に入れた心理学として徐々に内実を充実させていきたい。そしてデジタルテクノロジー時代の表現にフィードバックできる「使えるツール」として洗練させていきたいと考えている。

9.   おわりに

第1部ではデジタルテクノロジー時代の表現における現状分析と、情報発信者に求められる能力について。第2部では学会設立活動の意味づけとテクノロジーが医療界に及ぼしつつある影響、医療メディアの分析について。第3部では感覚をめぐる個人史から医療生態心理学の構想について、それぞれ著してきた。

メディカルイラストレーションを描く人の「強み」を考えるに、それは医学とイラストという二つの領域に足場をもっている点だろう。しかし私は、単に医学に依存するだけでは立場として弱いと考えている。ややもすると医学の側に立つ人の言いなりになったり、袖を振られて落ち込むことになりかねない。ではどうすればいいのか?
 私は医学に足場を置きながらも、独自の学問的土台を作ることだと考えている。それが「この人はアカデミックな立場を持っている」と認知されることになり、医学に依存するだけではない、社会インフラの主体として自立していることをアピールできると考える。本論考もそのための一里塚である。これから研究を行う方には、医学研究に汎用される統計学的有意性にもとづいた方法だけでなく、社会学的、心理学的アプローチや文献研究も試みていただきたい。

メディカルイラストレーションをめぐって、「因果の物語」から「共時の物語」へ至る流れを求めて本稿をまとめてきた。その中で私の思考が因果性重視から共時性重視へ変化しつつあることを実感できた。これからは重い因果の縛りから開放されて、祝福された共時性を楽しみながら、現実空間もネット空間も、あらゆる場所を全力で走ることができそうだ。これからも会員の皆さんと一緒に楽しんで描いて生きていきたい。

•  筆者website:「メドモルフォーゼ 医者絵師あかしのメディカルイラストレーション」 https://medmorphose.com/

•  アート系Instagram:「医者絵師あかし」https://www.instagram.com/doctor_painter_akashi/

•  メディカルイラスト系Instagram:「medmorphose 明石のメディカルスケッチ」https://www.instagram.com/medmorphose/

参考文献

1). 薄井坦子:改訂版 看護学原論 講義、現代社、1996年

2). ベティ・エドワーズ:うちなる創造性を引き出せ、河出書房新社、2014年

3). 中谷正史ら:触楽入門 初めて世界に触れるときのように、朝日出版社、2016年

4). M. Shibata, et al. Broad cortical activation in response to tactile stimulation in newborns, NeuroReport: 2012, 23, 373-377

5). 南郷継正:科学的武道論への招待、三一書房、1972年

6). 佐々木正人:コレクション認知科学7 からだ:認識の原点、東京大学出版会、1987年

7). 佐藤雅彦、齋藤達也:指を置く Putting finger、美術出版社、2014年

8). 河本英夫:臨床するオートポイエーシス 体験的世界の変容と再生、青土社、2010年

9). 日本生態心理学会、設立趣意<https://www.jsep-home.jp/about/>(2020年10月22日アクセス)

10).       佐々木正人:レイアウトの法則 アートとアフォーダンス、春秋社、2003年

11).       佐々木正人:あらゆるところに同時にいる アフォーダンスの幾何学、学芸みらい社、2020年

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